スノーマン見聞録

ジャンルも内容も気の向くまま~“素浪人”スノーマンの見聞録

詩人・壇一雄

2014年02月18日 | 雑感
詩人でもある壇一雄。 好きな詩 『波』 と 不思議な詩 『落下』 を載せてみました。
                                   「壇一雄詩集」より抜粋。

《 波 》(ポルト・ド・バッカス)

   犬は 波に向かって 吠えるのですか?
   いいえ 黙って うなだれるのです。
   鴎(かもめ)は 沖に向かって 波を蹴るのですか?
   いいえ 砂の陰に群がって 死んだ魚介をついばむのです。
   砂は 何に向かって 鳴るのですか? 
   さあ アテなしの そらおそろしさに 自分で身ぶるいするのでしょう。

   ああ 波の咆哮(ほうこう)よりほかにない 汀(なぎさ)では
   私だって 立ちすくみ おののきながら 
   その鳴っている砂を踏みしめているだけなんです。


《 落下 》 

   その人は 汀をさすらっていた と云うのですか?
   いいえ 丁度そこを 通り合わせていたのでしょう。
   ええ こんなふうに、、、。 あっち向きに、、、。

   どこからですか?
   どこからだか そんなことが わかりそうなら 訊いてみたんですけどね。
   アテなしの 実にどうでもいいような 歩きざまで 
   汀の崖の上を ヒョコ ヒョコ ヒョコ ヒョコ
   千鳥の散らばってる方に向かって 歩いていったのです。

   おや 崖? 汀じゃ なかったのですか?
   ナギサなんて 云いましたかね? 
   ガケですよ。 百米のガケですよ。

   ガケの上に 砂の浜があるのですか?
   砂じゃ なかったですかね。 でも 奴さん 砂の上を踏んでるみたいに
   ヒョコ ヒョコ ヒョコ ヒョコ 歩いていったんですよ。

   千鳥が そんなガケの上に いるのですか?
   千鳥でなかったとしたら ピンタ・シルゴだね。
   そう ピンタの奴が 実に沢山 その人のまわりを 
   送り迎えでもするように 啼き交わしたり 翔び交わしたりして
   ヒラヒラ と まるで もつれそうに
   その人の足どりと にぎわい合ってる みたいなんですね、、、。

   あなたは とめなかったの?
   そっちは ガケだよ 行けないよ って 何度も云おうとしたんですけど
   何しろ 先のことは チャンと心得ているような 足取りでしょう。
   声をかける スキがありませんや。

   そのまま 飛んだのかね?
   いいえ まっすぐ 歩いていっちゃたって 云ってるでしょう。
   抱きとめる ヒマは無かったの?
   いいえ 南無 も 阿弥 も ありゃしませんや。
   まるで 宇宙船みたいに フンワリ開いて 落ちていってさ
   その落下が 無限を語るように 
   実に 長い長い 軌跡を曳いていっただけですよ。

   酔っていたのでしょうね?
   いいえ 酔った気配なんか ミジンも 感じられませんでした。
   それとも 自殺?
   冗談じゃない あんな自殺ってあるもんですか。
   見事な水シブキが 音もなく その男のまわりに 口をあけただけでした。

   あなたは 見たわけね? その男の 落ちてゆく姿を?
   咄嗟に 私は泣いちゃった。 何が 悲しいって 云うんですかね?
   あんなに キレイな 軌跡と 水シブキを 見たって 云うのにさ。

   だから あの男は 死んでなんぞ いませんよ。
   おや どうして?
   どうしてって お日様を呑みこむようにしながら
   ヒョコ ヒョコ ヒョコ 歩いていっただけですもの。

   どこへ ですか?
   さあ どこへって どこへでもいいようにさ。 
   あっち向きに さ。



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ワルシャワ・ゲットー

2014年02月18日 | 雑感
リンゲルブルク著『ワルシャワ・ゲットー』という本を読んで衝撃を受けた。

アウシュヴィッツは有名ですが、ポーランド領内には13のゲットーと42のユダヤ人地区があったという。 

 

1940年から1942年にかけてのポーランド・ワルシャワゲットーの悲惨な記録を命がけで残した人がいた。
著者のエマヌエル・リンゲルブルム氏(社会歴史学者)である。

ゲットーというユダヤ人居住地区での悲惨な実態の日々を記録した「ワルシャワゲットー覚書」ノートと関連する史料が、地下深く収めたミルク缶とブリキの筒に入ったまま戦後ゲットー廃墟にて発掘された。(1946・1950年の二度にわたり)

ドイツ軍がポーランドを占領した当時、ワルシャワゲットー4平方キロの面積におよそ50万人ユダヤ人がその三年間足らずのうちに収容所に送られ殺戮されたという。

ちなみに第二次世界大戦中のナチス・ドイツがユダヤ人などに対してのホロコースト(ナチドイツの組織的大虐殺)の犠牲者数は、600万人超いや1000万人ともいわれている。(ホロコースト否定論もあり反ユダヤ、反イスラエルの立場から今も主張され続けているのも事実だが)

この本末巻の地図で数えてみたが、ポーランド領内に「労働収容所21ヶ所」「絶滅収容所11ヶ所」も散在していた。

『ワルシャワ・ゲットー』にはユダヤ人の悲惨な実態が記されていた。

ドイツ当局はユダヤ人によるユダヤ人を取り締まる秩序維持班(ユダヤ警察)を各都市のユダヤ人「自治組織」ユダヤ評議会に命じつくらせ、理不尽な理由で次々と労働及び絶滅収容所へ送っていったのである。
(このユダヤ警察も終いには用済みとなり収容所へ)

ユダヤ人も生きるため家中に隠れ部屋をつくったり、ライフラインを止められ水を確保するため近所に火を付け、ドイツ軍が消火に使う水をかすめるなど、、、必死に抵抗したが、、密告や疫病(チフス)蔓延なども加わり残虐行為が日常化していった。

ある家(アパート)では、入居者が同じ部屋の一角を壁で仕切り、パン焼き窯からもぐりこむように入り口をつけ、床に穴を開けて梯子をつけて各階をつなぐ通路とするなどして、ユダヤ警察の眼を逃れたがこれも時間の問題。

疫病になっても病院も処刑場のごとく、患者はスープ一杯のほかは与えられず飢えで死んでいったという。

ゲットー住民の9割が絶滅(殺戮)収容所へ送り込まれた最後に、武器を手にし抵抗をみせたがドイツ正規軍動員で殲滅させられ、ゲットー解体後は200人のみ残された。 これも世界に対する体裁が理由だったとのことである。

これは悲惨な記録ですが、そんなユダヤ人に手を差し伸べる人も少なからずおり、一瞬の光も確かにあった。
尚、ポーランド人がどの程度加担していたか、、このことも現在でもなお賛否・議論のあるところである。

リンゲルブルク氏は妻子ともゲットーの廃墟の中で処刑された。 

史料の隠し場所を吐かせようとしたが彼も家族も誰一人として口を割らなかったという。



現在でも悲しいかな、、、。

イスラエルは自国領・占領地・入植地と、パレスチナ人居住区とを分断する壁を一方的に築いている。イスラエルは「壁」ではなく「フェンス」であると主張し、「反テロフェンス」と呼んでいる。

下記は我が仲間の白頭人のHPです(参考に)
ポーランド紀行