不思議なタイトルに目がいき、手にとってみた。 絵画に関する本であった。
カンサンジュン氏は、ご存じのように在日コリアンで、政治思想史が専門。 インテリとしてテレビなどでもお馴染み。2009年4月~2011年3月迄NHKの日曜美術館という番組で司会をしていたことでも知られる。
○ デューラー作(1478~1528)の「自画像」と「祈りの手」(版画)
絵の中で、その自画像から ”私はここにいる。おまえはどこに立っているのか”、、と、問いかけられるような感じがして、身震いするような感動を覚えたという。
ルネッサンスからルターの宗教改革の16世紀初頭、ヨーロッパはバラ色に輝くイメージとは裏腹に陰鬱な時代でもあり、数々の戦乱や飢餓・疫病・殺戮の続く時代でもあった。
○ マネ作(1832~1883)の 「草上の昼食」と「オランピア」
19世紀半ば、ブルジョワ台頭、公序良俗と表裏が存在した時代。放蕩な性文化も盛んに、不道徳さをあえて愉しむような時代でもあった。
1863年にこの「草上の昼食」「オランピア」が発表されるとたちまち非難の的になったという。生々しさを突き付けられた人々の偽善を衝いた絵でもある。(女性はどちらの絵もマネのモデルさんで同一人物)
そういえば、この時代のオペラでも男女の、あれって思うほどの浮気話がたくさんありました。
ブルジョワ貴族のこのような放蕩文化の時代、、そして下記・ミレーの「晩鐘」のおける貧困。 これが同時代に存在したのですね。
そして、表と裏、光と影はいつの時代にも。
○ ミレー作(1814~1875)の「晩鐘」
赤く傾いた夕陽の中に暮れかたの鐘がなる。夫婦らしき男女が頭を垂れ祈っている。二人の足元には馬鈴薯が籠の中にわずかに取り込まれている。1859年の作。
一日労力を費やしてこれだけの収穫。 祈りは無力か。 でも祈るしか無いのが人間なのか。
○ ベラスケス作(1599~1660)の「女官たち」と「ドン・セバスチャン・デ・モーラ」
どちらも先天的な異常を持って生れた人を描いている。当時の王宮には、愛玩的存在としてこうした人々がかなりの数暮らしていたようです。
著者はこの絵から、こう呼びかけられている気がするという、、、。
”俺はこんな運命に生れてきたけれども、それを潔く受け入れてここにこうしている。おまえはどうなんだ”、、と。
○ クラムスコイ作(1837~1887)の「忘れえぬ人」 (右はアップ図)
貴婦人とも高級娼婦ともいわれる。 悲しさ・可憐さ・気高さ・慈しみにあふれた不思議な魅力。 ロシアのモナリザといわれるのもわかる気がする。
○ 伊藤若冲作(1716~1800)の「群鶏図」と「貝甲図」
人間中心の目線ではそうしてもどこかに中心をもった絵にまとまるが、この絵のどこにも中心がないという。
人間がすべての動植物より優位とする西洋哲学に抗ずる「草木国土悉皆成仏」思想の原点はここにありか。
○ ゴーギャン作(1848~1903)の「かぐわしき大地」 ○ クリムト作(1862~1918)の「ダナエ」
対称的な作品ですね。
猥雑さの一切ない、無作為、野性的な「かぐわしき大地」とエロスとタナトスに満ち溢れた「ダナエ」。
私なんぞ美術や絵画には縁遠い人間。 絵を”観る”というよりは”見る”のほうでした。
有名な絵について、”ああ、いいなあ、上手いなあ”と関心はするのですが、それ以上の理解は出来はしませんでした。
ヨロッパ旅でルーブル美術館(パリ)でのモナリザやナショナルギャラリー(ロンドン)でルノアール・モネ等を見た時も、”ただ行った”そして”ただ見ただけ”でした。
この本を読んで、少しながらですが、こういう人間が、こんな考えで、こんな歴史背景の中で、こんな宗教的考えにまでに及んでおり、”絵画って凄いなあ” ”深いんだなあ” なんて感じております。
カンサンジュン氏は、ご存じのように在日コリアンで、政治思想史が専門。 インテリとしてテレビなどでもお馴染み。2009年4月~2011年3月迄NHKの日曜美術館という番組で司会をしていたことでも知られる。
○ デューラー作(1478~1528)の「自画像」と「祈りの手」(版画)
絵の中で、その自画像から ”私はここにいる。おまえはどこに立っているのか”、、と、問いかけられるような感じがして、身震いするような感動を覚えたという。
ルネッサンスからルターの宗教改革の16世紀初頭、ヨーロッパはバラ色に輝くイメージとは裏腹に陰鬱な時代でもあり、数々の戦乱や飢餓・疫病・殺戮の続く時代でもあった。
○ マネ作(1832~1883)の 「草上の昼食」と「オランピア」
19世紀半ば、ブルジョワ台頭、公序良俗と表裏が存在した時代。放蕩な性文化も盛んに、不道徳さをあえて愉しむような時代でもあった。
1863年にこの「草上の昼食」「オランピア」が発表されるとたちまち非難の的になったという。生々しさを突き付けられた人々の偽善を衝いた絵でもある。(女性はどちらの絵もマネのモデルさんで同一人物)
そういえば、この時代のオペラでも男女の、あれって思うほどの浮気話がたくさんありました。
ブルジョワ貴族のこのような放蕩文化の時代、、そして下記・ミレーの「晩鐘」のおける貧困。 これが同時代に存在したのですね。
そして、表と裏、光と影はいつの時代にも。
○ ミレー作(1814~1875)の「晩鐘」
赤く傾いた夕陽の中に暮れかたの鐘がなる。夫婦らしき男女が頭を垂れ祈っている。二人の足元には馬鈴薯が籠の中にわずかに取り込まれている。1859年の作。
一日労力を費やしてこれだけの収穫。 祈りは無力か。 でも祈るしか無いのが人間なのか。
○ ベラスケス作(1599~1660)の「女官たち」と「ドン・セバスチャン・デ・モーラ」
どちらも先天的な異常を持って生れた人を描いている。当時の王宮には、愛玩的存在としてこうした人々がかなりの数暮らしていたようです。
著者はこの絵から、こう呼びかけられている気がするという、、、。
”俺はこんな運命に生れてきたけれども、それを潔く受け入れてここにこうしている。おまえはどうなんだ”、、と。
○ クラムスコイ作(1837~1887)の「忘れえぬ人」 (右はアップ図)
貴婦人とも高級娼婦ともいわれる。 悲しさ・可憐さ・気高さ・慈しみにあふれた不思議な魅力。 ロシアのモナリザといわれるのもわかる気がする。
○ 伊藤若冲作(1716~1800)の「群鶏図」と「貝甲図」
人間中心の目線ではそうしてもどこかに中心をもった絵にまとまるが、この絵のどこにも中心がないという。
人間がすべての動植物より優位とする西洋哲学に抗ずる「草木国土悉皆成仏」思想の原点はここにありか。
○ ゴーギャン作(1848~1903)の「かぐわしき大地」 ○ クリムト作(1862~1918)の「ダナエ」
対称的な作品ですね。
猥雑さの一切ない、無作為、野性的な「かぐわしき大地」とエロスとタナトスに満ち溢れた「ダナエ」。
私なんぞ美術や絵画には縁遠い人間。 絵を”観る”というよりは”見る”のほうでした。
有名な絵について、”ああ、いいなあ、上手いなあ”と関心はするのですが、それ以上の理解は出来はしませんでした。
ヨロッパ旅でルーブル美術館(パリ)でのモナリザやナショナルギャラリー(ロンドン)でルノアール・モネ等を見た時も、”ただ行った”そして”ただ見ただけ”でした。
この本を読んで、少しながらですが、こういう人間が、こんな考えで、こんな歴史背景の中で、こんな宗教的考えにまでに及んでおり、”絵画って凄いなあ” ”深いんだなあ” なんて感じております。