スノーマン見聞録

ジャンルも内容も気の向くまま~“素浪人”スノーマンの見聞録

悪魔のはなし

2013年05月14日 | 雑感


清く美しい「富士山」と「月見草」の次は、なぜか「悪魔」の話です。

つい先日(2013年5月3日)、ニュージーランドで子供に悪魔(ジャスティス)の命名はダメとの報道がありました。

キリスト・メシアとかも、またむやみに長い名・階級を表す名等、子供の福祉を害し親権の濫用にあたるとのこと。

そういえば20年ほど前,日本でも「悪魔くん騒動」がありましたよね。

悪魔という名を付けようとしたが、行政側で却下し決着。世に大きな波紋が拡がったあの騒動です。


先日読んだ本にあった話ですが、、、。山折哲雄著『日本人と死の準備』より

実は、
お釈迦様が最初の男の子に、なんと「悪魔」(サンスクリット俗語で「ラーフラ」)という名をつけていたそうです。

「食するもの、すなわち悪魔」との意味が辞書に出ているとのことであった。
(もともとは日食・月食の食という意味、すなわちそれらを起こすのは悪魔の仕業)

どうしてその名前をつけたかについては、いまだに仏教の謎とのこと。

お釈迦様は、その生涯に二度家を出二度子供を捨てたとある。今流に言えば自分自身を発見する旅とはいえ、エゴイズムを充たす旅とも解釈できなくもなく、その息子は敵意を抱いたに違いない、、と山折氏はいう。

しかしそれがいつのまにか釈迦の弟子になっていたのです。

釈迦十大弟子の第9番目の弟子が、その「ラーフラ」漢訳・羅睺羅(らごら)なのである。


山折氏は、「この問題は仏教の要所であり、それを問題にしてはじめて仏教が2500年のあいだ世界に拡がった必然的な意味がわかるはず、、と思うようになった」 と記していた。


この後、なぜかしら「悪魔」のことが私の頭から離れない日々が続いてしまい、手当次第に「悪魔」と題する著書を読んでみました。  物好きもここまでくると自分でも呆れます(苦笑)。

その中の一冊ピーター・スタンフォード著『悪魔の履歴書』(原書房)に16世紀前後で起きた「魔女狩り」のことがありました。

○カトリックとプロテスタントのどちらもがサタン(悪魔)と力を合わせて、大陸中で組織的に魔女の陰謀を造り上げた。
○10万人にも及ぶ人々が火刑に処せられた。
○1468年に教皇パウロ二世が例外的な犯罪においては、自白を引き出すために拷問を使用してもよいと決定したことで魔女狩りの熱狂には更に勢いづいた。 、、、等々が記されていた。

ある宗教には善の神・悪の神があり、その両方を受け入れることが幸せに繋がるという。人と神・人と自然・人と人との調和が図れるともいう。 こんなふうにならないものなのでしょうか。

世の中、人間の歴史って、今も含めて「善」と「悪」の争いの数々、、、どちらも「善」を名乗り戦い続けている。

人間ってただでさえ自分が善であると思いたがるようにできているようである。
人間の「思いあがり」なのかも知れません。

「善」の中にこそ「悪」が潜んでいる。  人間ってなんて馬鹿なんだろう!って笑われながら、、、。


嗚呼!私の頭はこのまま悪魔悪魔で支配され続けられるのでしょうか!

笑いごとではないのである。