湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

☆ドヴォルザーク:交響曲第9番<新世界より>(1893)

2017年10月05日 | Weblog
<古今東西わかりやすい交響曲の最高峰。作曲家アメリカ時代の傑作。>

クーベリック指揮



◎バイエルン放送交響楽団
(en larmes:cd-r)1971/5-6ポルトガル・リスボンlive/
(re!discover enterprise他:cd-r)1970年代live/
(sardana records:cd-r/ORFEO)1980/6live

この三つのライヴ録音の中で、一番魅力ある演奏は圧倒的にポルトガルライヴの盤だ。良く引き締まった演奏である。比較的インテンポで快調に飛ばす一楽章、二楽章は最高の出来。三楽章はややだらしない出だしだが次第にまとまってくる。四楽章は快速で、弦楽器気合の入りかたが尋常じゃない。ペットソロに思い入れが無かったり細かい瑕疵もあるが、そんなに気にはならない。ヴァイオリンパートが両翼展開しているのも驚きである。最後はブラヴォーの渦だが、さもありなん。さて、この演奏とそんなに時期が違わないのにかなり違った感じがするのが70年(代?)ライヴの盤である。演奏時間がまずぜんぜん違う。一楽章は速い。二楽章は遅い。三楽章も長いが、それはフレーズ毎のうたいこみが長いせいだろう。四楽章は速く、なかなかのダイナミズムである。音はややくぐもりがちであるし、そのせいかおとなしく聞こえるが、ブラスが圧巻で、一糸乱れぬ咆哮は気を沸き立たせる。また中間楽章の木管セクションはナイス。最後のブラヴォーはポルトガルのときよりは小さいがまずまずの出来だろう。何故かこの演奏と似た印象を与えたのが、一番新しいはずの80年のライヴである。録音時間的にも70年のものと非常に近い。が、表現はかなり円熟しており良くも悪くも大人の演奏といったふうだ。なめらかであり、よりおとなしいが、叙情性は増しており、とくに四楽章緩徐部のなつかしい響きは印象的である。最後のブラヴォーはまあまあ。サルダナの録音は後述のMETEORと同じ可能性あり、ORFEO(1980/6/19,20)とは同じ模様。

○シカゴ交響楽団(mercury)1951/11/
ウィーン・フィル(decca)1956/10/
○バイエルン放送交響楽団(altus)1965/4/24日本live/
ベルリン・フィル(dg)1973/
チェコ・フィル(denon)1991/10/11live

クーベリックにはムラがある。たとえばウィーン・フィルとの演奏は粗雑で薄っぺらく余り薦められたものではない。しかしそれより5年前のシカゴとの演奏は若々しい躍動にあふれ非常に充実した聴感をあたえる(ただしモノラル)。バイエルンとの演奏はこの中でもっとも薦められるもので、終始速いテンポで小気味よく進む音楽はライヴならではの迫真性をもって迫ってくる。そのドラマティックな音楽は何度でも聴いて楽しみたくなるほどの耳馴染みの良い音楽であり、クーベリックの「新世界」の白眉といっていい。一方ベルリン・フィルとのスタジオ録音はややおとなしくなったというか、中途半端な感じに仕上がってしまった。それでも一定の水準は満たしているのだが。チェコ・フィル盤は祖国に凱旋したあとのものだが、丁寧な音作りは認められるもののさらにおとなしくなった感も否めない。オケにやや難がある気もする。音にあまり個性が無く、熱せず低温なのだ。終楽章の緩徐部など感動的な場面もいくつかあるが、これをクーベリックの真骨頂と呼ぶにはいささか躊躇をおぼえる。拍手もブラヴォーも割合冷静。さてクーベリックはこれだけ多くの記録を残しているわけだが、どれもそれぞれの特色がある。一本筋の通った演奏史とはいえない状況を呈しているわけだ。

○バイエルン放送交響楽団(METEOR)LIVE

METEOR等の怪しげアメリカレーベルは一時期巷に溢れかえっていた。未発売のライヴ音源を、はっきり言えば海賊盤の形で世に送り出し続けたレーヴェルである。ライナーなぞ当然ない。この盤のように録音年代すら書かれていないのも多いのだ。しかしながら、価格帯が低かったのと、当時健在だったチェリビダッケの未認可盤を沢山有していたことから、比較的長期間にわたって売られ続けていた(ASdiscなんかも同じように売られていた。これもアメリカ盤)。しかし現在入手できるのは限られた盤にすぎない。チェリ死後に公式に発売となった晩年ライヴに対してその価値を失った同じ曲の盤(ブルックナーなど)くらいだろう。ブラームスやドヴォルザークなどは滅多に出てこない。チェリ晩年の「新世界」など聴いてみたい盤のひとつだが、気長に待つしかないだろう、と思っている。某評論本で某著名評論家がやたらとMETEORのチェリのライヴを持ち上げていて、ヘキエキしたものだが(だいたい未認可盤をこんな本に載せていいものかどうか!)、それだけ持ち上げられる理由があるのかどうか、いつか確かめていきたい。話しが外れたが、クーベリック盤である。かなり完成度の高い演奏で、それゆえにケチのひとつもつけてみたくなる。以前ここで挙げたクーベリックのライヴ盤と同じ物なのか違う物なのか、聴いただけでは判別がつかない(たぶん違う)。それらから離れた演奏ではないことは確かで、まあ、コレクターやアニアが喜ぶくらいのもの、としておこう。1、2楽章はそれなりに胸打たれた。3、4楽章の気合にはびびる。このコンビのライヴは表現意欲が強く、ちょっと油っぽい感じもあるが、よく引き締まった音は聴いていて気持ちがいい。もっとゆったり聴きたいよ派には薦められないが、たとえば新世界初心者にはよい導入盤となることだろう。あふれる情熱、途切れない集中力に傾聴。終楽章緩徐部の濃厚な表現は独特。この楽章、音楽の表情付けが凄い。あれ、テンポが、という箇所あり。盛大なブラヴォーと拍手で終了。(2003春 記)CD-R盤のどれかと同じ演奏である可能性あり。

○バイエルン放送交響楽団(MA:DVD)1977/12LIVE

いきなり始まって終わってぶつ切れるなんとも余韻も何も無い編集だけれども、音も映像も良好。同時期のライヴCDも多いので、ひょっとするとどれかと同一演奏かもしれないが、観たところちょっと事故的なものがあったりする(終楽章で弦がなぜかズレそうになる)のが特徴的なのでおそらく別だろうと思い別項にあげた。クーベリックは直情型だがここぞというところで大きく揺らしてくるのがかっこいい。なんといっても終楽章なのだが、ペットがタメを作って警句を鳴らしたり、弦が思い切りテンポを落として緩徐主題を歌い上げたりと面白さに事欠かない。おおざっぱに言えば確かにあまり個性的とはいえない正攻法の演奏ではあるが、ライヴのクーベリックが見せる気迫の一端に触れる事が出来るので、ファンならずとも一回試してみてください。

※2004年以前の記事です
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☆ドビュッシー:三つの交響的エスキース「海」

2017年10月05日 | Weblog
○アンゲルブレシュト指揮
フランス国営放送管弦楽団(ORTF)
 (ERATO)1958/3/20 LIVE(MONO)・LP/
 (DISQUES MONTAIGNE他)1962/1/23LIVE(STEREO)・CD/
シャンゼリゼ劇場管(=ORTF)(EMI/TESTAMENT)(MONO)・CD

<デュランに献呈された正真正銘ドビュッシーの代表作。これを交響詩ととるか交響曲ととるか?有名曲だけにいろいろな見方・演奏がある。海を見たことがないがゆえに自由な想像の翼をはためかせ、一種の夢幻郷を描くことができた。子供の頃読んだキャプテン・クックやアラブの海賊の物語、生暖かいアトモスフィアの中に明滅する幻は、遠い異郷の夜を感じさせる。総譜の表紙に使われた北斎画もインスピレーションを与えるひとつのきっかけにすぎず、スペインにもジャワにも影響されない「ドビュッシー」そのものがここにある。純粋な個性という面で「ドビュッシー」の最も発揮された曲であり、このあと世の流れに沿うように無調や新古典的傾向を帯び変容していくことを考えると、同曲をきくことはドビュッシーの全体像を知る上で避けては通れない道といえよう。三幅の絵画。不明瞭な描線・清新で微細な色感を持つ印象派絵画のようだともいわれるが、私はもっと描写的なイギリスの先駆的画家を思い出す。かれも海の画家だ。音楽を紡ぐということは不明瞭ではいられない側面がある。ヴィオラとチェロの中間の音、とか、ティンパニとホルンの音色を兼ね備えたピッコロ音域も出せるバスーン、等、現実にありえないものを導入するわけにはいかないからだ。画家のように自分で色(音)を作ることも中仲難しい。珍奇の域に達しないという前提で斬新な和音を求めるなら、限界はすぐにやって来る。さらに多くの作曲家は、自らの子を演奏家という媒体を介して伝えるしかない。ストラヴィンスキーが盛年期以降、自己の棒(+クラフト)しか信用しなくなったという話は、溯ればラヴェルの不器用だが必死な棒、そしてメンデルスゾーンの時代のように長い長い棒を持ち上げる、ドビュッシーの姿へと繋がる。作曲家が画家の真似をするのは難しい。音楽とは不自由な芸術、それゆえ面白い。>

1曲目:夜明けから真昼まで、2曲目:波との戯れ、3曲目:風と海との対話

エラートのモノラルライヴが一番緊張感があり聞きごたえがあったが(段違い!!)、入手難のため、ここでは深く触れない。ORTFの木管は定評があったが、フルートパートにデュフレーヌの名が記されていたのには(あるのに不思議は全く無いのだが)感動した。シャンゼリゼ盤は省略。名盤の誉れ高い(でも廃盤)ディスク・モンテーニュ盤は穏やかな表現で音響の綾の移り変わりを的確に表現することに重点を置く客観的な演奏。しかし表現は平板ではない。木管の固く四角四面の音も、弦の目覚ましいアンサンブルも、僅かなルバートも全て一種の緊張感に満ちている。集中力が高いのではなく、張り詰めているということだ。各パートがしっかり固まっており、その塊を寄せ集めて巧く舵取りをやっている風。非常に冷静だがロザンタールのように半端な熱情が無い分優れている。ともすると旋律偏重や弦楽偏重の穴に落ちてしまいがちな曲だが、ポリフォニックに重なり合う断片的なフレーズが様々な楽器を渡り歩くさまは非常に明らか。オケはかなり無個性で弱さすら感じるものの、聴後感は他の何物でもなく「ドビュッシーを聞いた」というところだ。楽器により少し弛緩した様子も聞かれるが、結尾のドラマは「海」そのもの。ブラヴォーの渦にこの指揮者の歩んできた道のりを思う。

※2004年以前の記事です
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