民主国家・法治国家の基本思想=「権力は集中したり、長期化すると腐敗する」
60余年続いた自民党政権、それが2009年8月30日の衆院選で民主党に政権が移った時(戦後初めてと言っていい本格的な政権交代が成った時)、海外からは「日本の新しい夜明け」とまで評されたのだが、当の日本ではこの60余年間で癒着腐敗した3権(司法・立法・行政)と、その権力を監視し国民に知らしめ国民を味方につけることによって「ペンは剣より強し」の通り第4の権力の地位に立てるはずだったマスコミ(財)も「酒・女・金」で支配層に取り込まれてしまっており、政官財癒着のまま民主党政権が誕生した。
マスコミはこの政権交代の意味を国民に知らしめないまま、国民を向いた政治をしようとする民主党の「思い通りにはさせないぜ、これからがマスコミの出番だ」とばかり旧勢力体制(今の支配層)の復活・修復に全力を投入した。
官僚支配(検察・警察・財務省・防衛省・宮内庁・自衛隊・等々)による官僚の造反を国民の立場からではなく、全て政権交代を果たした民主党に向けたのだ。
マスコミの必死の反撃の結果、国民は1年も経たない2010年7月11日の参院選で旧勢力を復活させ(逆ネジレとし)政権交代(=国民のための政治)を無に帰す投票行動をしたのだ。この時の私の落胆・失望は言い表せないものがあり、又、日本国民のバカさ加減に呆れてしまったものだ。半世紀以上にわたって続いてきた腐敗利権構造を打ち壊すには相当の力がいるし4年間でも無理な改革である。
参院選で旧勢力側に投票した有権者に今の民主党を批判する権利はない!
私の日記を読み直してみると、同じようなことを書いているのだが、それでも、中には「こんなにもマスコミは汚い手口を使っていたのか」と再認識させられるものがある。
昔の記事を蒸し返しても仕方がないので、最近のデモの記事・社説について載せておく。
(1)産経新聞記事
「脱原発」を訴え、原発再稼働に抗議するデモが毎週のように、東京の首相官邸や国会の周辺で行われている。20日は鳩山由紀夫元首相まで参加した。
といっても主催者が道路使用許可などを申請したデモではない。多くはインターネットの「ツイッター」の呼びかけなどで集まっており、その参加者数も正確には把握できないほどだ。それだけに「脱原発」を支持するマスコミや識者からは「これだけの国民が自発的に抗議行動しているのは昭和35年の安保闘争以来だ」と、その盛り上がりを強調する声が聞かれる。「だから政府はその声に耳を傾け、原発再稼働をやめるべきだ」と言いたいようである。だが、どうしても安保闘争に例えて評価したいのなら、あのときのデモや抗議行動がどんな意味を持ち、何をもたらしたのかをまず検証すべきだろう。
時の岸首相が強行採決後の記者会見で「声なき声に耳を傾けなければならない」と述べ、デモには屈しないことを強調した。
さらに、全学連主流派が国会内に突入後にも「都内の野球場や映画館は満員で、銀座通りもいつもと変わりがない」と強気の構えを崩さなかった。
結局、岸の不退転の決意が安定した日米同盟関係を築いたのである。
逆に反対のデモは政治的には何も得ることなく終わった。
それどころか大きな弊害を残した。
この後何十年も続く自民党政権が、まるで「羹(アツモノ)にこりた」ように、安保改定の後取り組むべきだった憲法改正をはじめ、「国の守り」に関する議論を先送りし続けたことである。
原発をめぐっても、日本の経済のため推進すべきだという意見も多い。
本紙世論調査では大飯原発の再稼働を4割近くが評価している。だが「脱原発」「反原発」という「大きな声」の前に、そうした声はかき消されがちだ。こうした「声なき声」が無視されるようなら、安保闘争同様にエネルギー政策や原発の安全性に関する正面からの議論ができなくなってしまう。ましてや、政府が「大きな声」だけに耳を傾けるなら、将来に禍根を残すだけになるだろう。…(産経新聞論説委員・皿木喜久)
(2)夕刊フジ(2012.08.20)…この『読み解き鍵で350度視界良好』の若狭勝氏の“事案”『デモ、イジメ、五輪 群集心理の明と暗』は書き方が巧みで騙される人が多いと思うので無風流に意訳して要約して書く。
毎週金曜日の首相官邸前での反原発が恒例となっており着目されている。
「デモ」と「いじめ」と「オリンピック」には共通項がある。それは「群集心理」である。
一般的に、政府や警察などの公安当局はデモを危険なものとしてみている。
群集心理によってデモは時として暴徒化する上、デモ自体が反政府・反体制に基づくことが多いからだ。
群集心理とは、群集であるがゆえに生まれる特殊な心理状態であるが、その特色としては、
①判断力の低下・興奮性の高まりによる衝動的・無責任行動、更には「赤信号みんなで渡れば怖くない」の心理が生まれ、責任追及される危険性も薄れ、時に暴徒化し、公共物などを破壊し、集団リンチ(いじめ)へとつながる恐れがある。
②その場の雰囲気に飲まれ、自分の意見がないまま他人の言動にすぐ同調する付和随行者が表れ、それがデモの激化を招来する。
刑法では、デモ暴徒化に当たり、首謀者のみならず「付和随行者」も刑罰をもって臨む。
これらの点は「群集心理の闇」の面と言えよう。
次に少年のいじめ問題にも「群集心理の闇」が関係してくる。
一人一人の少年には凶暴な性格を見いだせないのに、集団化すると危険極まる犯罪を簡単に敢行するのかと驚かされるケースがある。
一つの原因は、群集心理によって加害者自らの判断力が低下、衝動的・無責任な行動に走る傾向とともに周りの取り巻きも付和随行者となり暴挙を止める積極的行動が起こせなくなるからである。
これに対し、オリンピックの応援は、まさに「群集心理の明」である。
多くの人が日本チームと選手をこぞって応援し、それが起爆剤となり、それまで関心がない人まで巻き込み大きな「感動」を生み出す。(後略)
ここまで書いてきて、コメントするのが馬鹿らしくなってきた。
前回書いたように世論調査で原発の即時・又は漸次廃止を求める国民が85%(JNN調査)であることと、仕事や家事といった生活に追われている私の様な国民は②を読んで「デモに参加しようかな」と思う気持ちも「くわばらくわばら」と萎えてしまうだろうことをお知らせして、今日はここまで、またね。
追:今回から小出しに載せていくからね。
60余年続いた自民党政権、それが2009年8月30日の衆院選で民主党に政権が移った時(戦後初めてと言っていい本格的な政権交代が成った時)、海外からは「日本の新しい夜明け」とまで評されたのだが、当の日本ではこの60余年間で癒着腐敗した3権(司法・立法・行政)と、その権力を監視し国民に知らしめ国民を味方につけることによって「ペンは剣より強し」の通り第4の権力の地位に立てるはずだったマスコミ(財)も「酒・女・金」で支配層に取り込まれてしまっており、政官財癒着のまま民主党政権が誕生した。
マスコミはこの政権交代の意味を国民に知らしめないまま、国民を向いた政治をしようとする民主党の「思い通りにはさせないぜ、これからがマスコミの出番だ」とばかり旧勢力体制(今の支配層)の復活・修復に全力を投入した。
官僚支配(検察・警察・財務省・防衛省・宮内庁・自衛隊・等々)による官僚の造反を国民の立場からではなく、全て政権交代を果たした民主党に向けたのだ。
マスコミの必死の反撃の結果、国民は1年も経たない2010年7月11日の参院選で旧勢力を復活させ(逆ネジレとし)政権交代(=国民のための政治)を無に帰す投票行動をしたのだ。この時の私の落胆・失望は言い表せないものがあり、又、日本国民のバカさ加減に呆れてしまったものだ。半世紀以上にわたって続いてきた腐敗利権構造を打ち壊すには相当の力がいるし4年間でも無理な改革である。
参院選で旧勢力側に投票した有権者に今の民主党を批判する権利はない!
私の日記を読み直してみると、同じようなことを書いているのだが、それでも、中には「こんなにもマスコミは汚い手口を使っていたのか」と再認識させられるものがある。
昔の記事を蒸し返しても仕方がないので、最近のデモの記事・社説について載せておく。
(1)産経新聞記事
「脱原発」を訴え、原発再稼働に抗議するデモが毎週のように、東京の首相官邸や国会の周辺で行われている。20日は鳩山由紀夫元首相まで参加した。
といっても主催者が道路使用許可などを申請したデモではない。多くはインターネットの「ツイッター」の呼びかけなどで集まっており、その参加者数も正確には把握できないほどだ。それだけに「脱原発」を支持するマスコミや識者からは「これだけの国民が自発的に抗議行動しているのは昭和35年の安保闘争以来だ」と、その盛り上がりを強調する声が聞かれる。「だから政府はその声に耳を傾け、原発再稼働をやめるべきだ」と言いたいようである。だが、どうしても安保闘争に例えて評価したいのなら、あのときのデモや抗議行動がどんな意味を持ち、何をもたらしたのかをまず検証すべきだろう。
時の岸首相が強行採決後の記者会見で「声なき声に耳を傾けなければならない」と述べ、デモには屈しないことを強調した。
さらに、全学連主流派が国会内に突入後にも「都内の野球場や映画館は満員で、銀座通りもいつもと変わりがない」と強気の構えを崩さなかった。
結局、岸の不退転の決意が安定した日米同盟関係を築いたのである。
逆に反対のデモは政治的には何も得ることなく終わった。
それどころか大きな弊害を残した。
この後何十年も続く自民党政権が、まるで「羹(アツモノ)にこりた」ように、安保改定の後取り組むべきだった憲法改正をはじめ、「国の守り」に関する議論を先送りし続けたことである。
原発をめぐっても、日本の経済のため推進すべきだという意見も多い。
本紙世論調査では大飯原発の再稼働を4割近くが評価している。だが「脱原発」「反原発」という「大きな声」の前に、そうした声はかき消されがちだ。こうした「声なき声」が無視されるようなら、安保闘争同様にエネルギー政策や原発の安全性に関する正面からの議論ができなくなってしまう。ましてや、政府が「大きな声」だけに耳を傾けるなら、将来に禍根を残すだけになるだろう。…(産経新聞論説委員・皿木喜久)
(2)夕刊フジ(2012.08.20)…この『読み解き鍵で350度視界良好』の若狭勝氏の“事案”『デモ、イジメ、五輪 群集心理の明と暗』は書き方が巧みで騙される人が多いと思うので無風流に意訳して要約して書く。
毎週金曜日の首相官邸前での反原発が恒例となっており着目されている。
「デモ」と「いじめ」と「オリンピック」には共通項がある。それは「群集心理」である。
一般的に、政府や警察などの公安当局はデモを危険なものとしてみている。
群集心理によってデモは時として暴徒化する上、デモ自体が反政府・反体制に基づくことが多いからだ。
群集心理とは、群集であるがゆえに生まれる特殊な心理状態であるが、その特色としては、
①判断力の低下・興奮性の高まりによる衝動的・無責任行動、更には「赤信号みんなで渡れば怖くない」の心理が生まれ、責任追及される危険性も薄れ、時に暴徒化し、公共物などを破壊し、集団リンチ(いじめ)へとつながる恐れがある。
②その場の雰囲気に飲まれ、自分の意見がないまま他人の言動にすぐ同調する付和随行者が表れ、それがデモの激化を招来する。
刑法では、デモ暴徒化に当たり、首謀者のみならず「付和随行者」も刑罰をもって臨む。
これらの点は「群集心理の闇」の面と言えよう。
次に少年のいじめ問題にも「群集心理の闇」が関係してくる。
一人一人の少年には凶暴な性格を見いだせないのに、集団化すると危険極まる犯罪を簡単に敢行するのかと驚かされるケースがある。
一つの原因は、群集心理によって加害者自らの判断力が低下、衝動的・無責任な行動に走る傾向とともに周りの取り巻きも付和随行者となり暴挙を止める積極的行動が起こせなくなるからである。
これに対し、オリンピックの応援は、まさに「群集心理の明」である。
多くの人が日本チームと選手をこぞって応援し、それが起爆剤となり、それまで関心がない人まで巻き込み大きな「感動」を生み出す。(後略)
ここまで書いてきて、コメントするのが馬鹿らしくなってきた。
前回書いたように世論調査で原発の即時・又は漸次廃止を求める国民が85%(JNN調査)であることと、仕事や家事といった生活に追われている私の様な国民は②を読んで「デモに参加しようかな」と思う気持ちも「くわばらくわばら」と萎えてしまうだろうことをお知らせして、今日はここまで、またね。
追:今回から小出しに載せていくからね。
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