無風老人の日記

価値観が多様化し、自分の価値判断を見失った人たちへ
正しい判断や行動をするための「ものの見方・考え方」を身につけよう。

他人様のお言葉拝借シリーズ…②川喜田研氏

2015年09月14日 | Weblog
<川喜田研氏>

ジャーナリストの川喜田研氏の『週刊プレイボーイ』本誌連載中のコラムより、パクリ。


安全保障関連法案に反対する大勢の群衆が国会議事堂前を埋め尽くした翌日、NHKの朝のニュース番組『おはよう日本』を見て驚いた!

なんと、国会前はもちろん、前日に日本各地で行なわれたデモについての報道もゼロ。

まるで何事もなかったかのように、鮮やかな「完全無視」だったからだ。

もちろん、デモがあった日曜夜7時の『NHKニュース7』では、デモに関する報道もあった。
ただし、トップニュースはなぜか「タイの爆弾テロ事件関連」で、その次に「スズキとフォルクスワーゲンの提携解消」、ようやく3番目に「国会前のデモ」である…。

僕はTVのニュース番組、それも「公共放送」であるNHKともなれば、ある程度、ニュースの価値とか重要度に応じて、その日のトップ項目やオーダーを決めるものだと思っていた。

だとすると、今や国政の焦点である「安保法制」に反対する大規模デモよりも「タイのテロ事件」や「自動車メーカーの提携解消」の優先順位が高いというのは、どういうコト?と、少し呆れていたのだが、まさか翌朝のNHKがあのデモを完全無視するとは思ってもみなかったのだ。

ちなみに、その朝は「愛知県のコンビニ立てこもり事件」が「現在進行形」で起きていたので、この事件の速報が優先されたのは、まあ、わからなくもない。

だが、週明け月曜日の朝のニュースというのは、週末に起こった「主な出来事」を扱うのが基本のはず。少なくとも「日曜日の事件はもう終わった話…」という感覚はないはずだ。

現に、デモ翌朝のニュースでは前日と同様に「タイのテロ事件」や「スズキとフォルクスワーゲンの提携解消」がトップ項目として扱われていたのだが、そのまま待っていたらいつの間にか「北海道でヒグマが出没」の話題になってしまい、結局、最後までデモにはひと言も触れずに番組終了!

オイオイ、ちょっと待てよ! あのデモの現場を実際に自分の目で見れば(当然、NHKの記者だってあの場にいたはず?)、あるいは他局のニュースや新聞での空撮映像を見ただけでも8月30日の午後、「安保法制」に抗議するものすごい数の人たちが国会前を埋め尽くしたという、その事実は十分に理解しているはずだ。

それに、他ならぬNHKも前日夜のニュースでは、国会前だけでなく、日本各地で一斉に同じような抗議デモが行なわれ多くの参加者を集めたことを報じていたはずではないか?

もちろん、当日のデモに参加した具体的な人数については、警視庁発表の3万人余りから主催者発表の12万人、あるいは延べ人数で34万人…と、いろいろな説があるのも知っている。

だが、本質的な部分で言えば、デモの参加者が3万だろうが、10万だろうが、35万だろうが、そんなコトなんかどうでもいい!

ハッキリしているのは、どんなに少なく見積もっても数万人規模の、戦後まれに見る大規模なデモがあの日、国会前を埋め尽くし時の政権に抗議の声を上げた、という事実だ。

海外のメディアですら大きく取り上げたこの事件が「週末の主な出来事」として翌朝のNHKのニュースに取り上げられず、完全に無視されるというのは、誰がどう考えても異常事態。

仮にNHKが公正・中立な報道を心がけるという公共放送の立場なら、これこそ「偏向報道」の典型というべきだろう。

あのデモが「ヒグマ出没」や「プロ野球の結果」以下の扱いを受ける理由をNHKの籾井(もみい)会長に訊きたい。

納得のいく回答を求めて、今度はNHKを「包囲」したほうがいいかもなぁ…。


他人様の言葉拝借シリーズ…①孫崎享氏

2015年09月14日 | Weblog
有識者の言葉を無風流にアレンジ(添削・改竄)して紹介するシリーズ第一弾。

<孫崎享氏>

10代・20代の人達へ。
あなたたちは今、この国の大手メディア(テレビ・大新聞)が重要な問題になればなるほど、歪んだ報道をしている、そういった国になってる事実を知る必要があります。
皆さんは中学生や高校生の頃、学校の先生から、「社会に目を開いた人間になりなさい。そのためには少なくとも毎日テレビのニュースは見なさい。そして、出来るだけ毎日、新聞に目を通しなさい。(大学入試にも出るぞ!)」という教えを受けてきたと思います。(もう昔の話なのかな?)

しかし、それはあくまでも日本のメディアがほぼ公正に事実関係を報道している、という前提の下です。(昔のように)

もし、その前提が存在しない時には、逆に大きな害を与えます。

第二次大戦に突入する際には、日本の新聞は軍部を礼賛し、危険な道へ進むのを絶賛し、日本の国論を戦争へと導いていきました。


テレビ・新聞が、正しいことを伝えなくなった時、権力の単なる宣伝機関になった時、それは益を与えるよりは害を与えるのです。

そして日本は、今、その段階に入っているのです。

今、日本では、自衛隊の海外派遣を制度化する安保関連法案が国会で審議され、採決される状況です。

私は日本という国が「民主主義国家であるのか」・「法治国家であるか」が問われていると思っています。

■「民主主義国家」の点では、国会議員は国民の投票で選ばれますが、それは国民の意思を代弁するという前提に立っています。

選挙で選ばれたら、その日から国民の意思との接点は無くなり、好きな事をして良い、というものではありません。

今、国民の過半数が集団的自衛権に反対、安全保障関連法案の今国会で成立させることに反対していますが、こうした国民の声への配慮は今の政権にありません。

■「法治国家」であるかの点についてはさらに深刻です。

多くの専門家が違憲との判断をしています。

1. 内閣では、内閣法制局が、法律を国会に提出する前に、憲法に違反していないか、過去の法律との整合性はどうなるか、を審査しています。

憲法判断の最も重要な機関です。

その内閣法制局の大森、宮崎、坂田(少なくとも一時期)、角田という4名の元内閣法制局長官が違憲(乃至、深刻な疑問)の発言をしています。

2. 山口繁・元最高裁長官は「集団的自衛権の行使を認める立法は、違憲」と発言をしています。

3. 憲法学者の約95%が違憲としています(長谷部早稲田大学教授の解説)。

 これらの違憲との解釈に、政府は説明する材料は持っていません

こうした状況下、学生の組織シールズの呼びかけを中心に、反対の声を知らせるために8月30日国会包囲の大デモが展開されました。

私も現場を見ましたが、10万人程度は参加しているであろうな、という状況でした。

これに対して、8月30日、NHKの午後7時のニュースは、デモ参加者人数を「主催者発表12万人、警察発表3万人」と報じました。

この警察発表3万人という数字は実態の感覚とあまりにも異なりました。

このような報道がある際には、人々は「主催者は大目に言うであろう。警察は嘘までつかないであろう」と思うと思います。

かなりの人々はそのような判断をしました。

しかし、この報道にはカラクリがあることが判明しました。

実態を9月10日TBSニュースが報じました。

「国会では、先月末に国会前で行われた安保関連法案反対デモに参加した人の人数をめぐる質疑が行われ、

警察側は『あくまでも特定エリア一時点の人数だった』と説明しました。

『その3万3千人の根拠。どういう方法で3万3千人と判断したのか』(民主・藤田幸久参院議員質問)

『警察としては全体の参加者の数を発表する立場にはございませんで、あくまでも警察活動に必要な範囲で特定のエリアの一時点における人数の把握に努めておりまして、それぞれの現場に応じた方法で人数の把握をしたということです”」 (警察庁・斉藤実審議官答弁)




12万人程度が参加したとなると、1960年の安保騒動以来の大人数が国会周辺でデモしたことになります。

大変な政治的、社会的出来事ですが、大手新聞は社説でその意義を論ずることはしませんでした

何故このような事実の過小報道をしたのでしょうか。

安倍政権にマイナスになるからです。

今や大手マスコミ(テレビ・新聞)は「時の政権にマイナスになるから、国民を誤解するように誘導し、その重要性を過小評価する」ようにしています。

こうしてみていきますと、日本の政治の問題で重要になればなるほど、日本の大手メディアは歪んだ報道をしていることが解ります。

ではどうしたらよいでしょうか。

自分で判断する能力をつけることです。

何かの出来事があったとしましょう。 プラス評価とマイナス評価の根拠を列挙して対比してみてください。

この比較で「どちらの方が説得力があるか」を自分で試みてみるのです。

幸い、ソーシャル・メディアが発達していますから、事実関係はどこかに出ています。

その事実関係をプラス評価とマイナス評価に分けて比較する。

この訓練をぜひとも心掛けて下さい。

自ら判断を行うのです。

そうしているうちに、「この人は信頼できる発言をする人だな」と言う人が解ってきます。

日本は今、「大手マスコミ(テレビ・大新聞報道)を信じていると間違った方向に連れて行かれる。」時代に入っています。

自ら考え判断しなければならない時代に入っているのです。



もう何度も載せている戦後間もない頃、文部省が作成した教科書をもう一度載せておく。(一部無風改竄=括弧内等)


だんだんと専制主義や独裁主義のやり方も上手になって来る。

独裁者たちは、道徳(公徳心・愛国心)だの、国家の名誉(美しい国)だの、民族の繁栄(勁き国)だのという美名を喧伝し、人々を服従させる手法を用いる。


戦前・戦中と、日本国民は帝国の繁栄という美名の下、馬車うまの様に働き、一命を投げ出して戦った。
しかし、それは一体何の為だったろう。
日本国民は、独裁者たちの野望に操られているとは知らないで、そうすることが義務だと考え、そうして死んでいったのである。
現にそういう風にして日本も無謀きわまる戦争を始め、その戦争は最も悲惨な敗北に終り、国民の全てが独裁政治によってもたらされた塗炭の苦しみを骨身にしみて味わった。

これからの日本では、そういうことは二度と再び起こらないと思うかも知れない。

しかし、そう言って安心していることはできない。

独裁主義は民主化されたはずの今後の日本にも、いつ、どこから忍びこんで来るかわからないのである。

独裁政治を利用しようとする者は、今度はまたやり方を変えて、もっと上手になるだろう。

今度は、誰もが反対できない「国際平和貢献」・「日本国民の平和と安全」・「日米同盟」という一番美しい名前を借りて、こうするのが皆んなの為だと言って、人々を操ろうとするだろう。

弁舌で煽てたり、金力で誘惑したり、世の中をわざと混乱に陥れ(このままでは敵が攻めてくるぞ!)、その混乱に乗じて上手に宣伝したり、手を変え品を変え、自分たちの野望を何とか物にしようとする者が出て来ないとは限らない。

そういう野望をうち破るにはどうしたらいいであろうか。
それを打ち破る方法は、ただ一つある。
それは国民の皆んなが政治的に賢明になることである。
人に言われてその通りに動くのではなく(テレビ・大新聞の報道を鵜呑みにするのではなく)、自分の判断で、正しいものと正しくないものとをかみ分けることが出来る様になることである。

民主主義は「国民のための政治」であるが、何が「国民のための政治」であるかを自分で判断できないようでは民主国家の国民とはいわれない。

独裁主義は、民主政治の国会の中で揺籃し、初めのうちは大人しくしているが、ひとたび多数を制すると、たちまち正体を現わし、すべての野党・反対党を追い払って、国会を独占してしまう。

民主主義は一辺に壊れて、独裁主義だけがのさばることになる。

こういうことが再び繰り返されないとは限らない。

民主国家の国民は、民主政治にもそういう落し穴があることを、十分に注意してかかる必要がある。


これが約65年前の民主主義が導入された頃の考え方である。