無風老人の日記

価値観が多様化し、自分の価値判断を見失った人たちへ
正しい判断や行動をするための「ものの見方・考え方」を身につけよう。

伊藤真弁護士の国会意見陳述②

2015年09月10日 | Weblog
昨日の続きですが、その前に9月8日(20150908)告示された自民党総裁選で野田聖子氏が400名の自民党議員の中から20名の推薦人を集められず出馬を断念したため、安倍首相が無投票で再選され、安保法制は9月15日に中央公聴会が開かれ、翌日16日の参院平和安全法制特別委員会で採決、その日の参院本会議に緊急上程し可決、成立することとなりました。

ここに謹んで国民の皆様に哀悼の意を表し、安倍首相の独裁体制が確立したことを報告して、伊藤真氏の参考人陳述を続けます。

(憲法と自衛権)

憲法は国民が自らの意志で国家に一定の権限を与えて国家権力を制御するための道具(ツール)であります。

憲法はその前文で「日本国民はこの憲法を確定した」とおいています。

何のためか?

「我が国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保するため」
そして
「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることが無い様にすることを決意し…」
とあります。

つまり、二度と政府に戦争をさせない、その為にこの憲法をつくったわけであります。


そして、そのことを具体的に明確にするために憲法9条をおきました。

憲法は、はじめから政府に戦争する権限などは与えていません。

そこでの戦争は「武力の行使」「武力による威嚇」を含む概念であります。

即ち、憲法は政府の裁量で武力行使、つまり戦争を始めることを許してはいないのです。

そこで、憲法のそとにある国家固有の自衛権という概念によって、「自国が武力攻撃を受けた場合に限り」の個別的自衛権だけを認めることにしてきました。

この個別的自衛権は日本への武力攻撃が行われた時に行使されますから、これは客観的に判断できる基準です。


(参考=従来の三要件)

シールズ作成の「6分で分かる安保法制」より

これだと、「正当防衛」「緊急避難」を頭に描き、そして但し「過剰防衛」はイケない、として簡単に誰でも理解できる三要件だと思います。
今回の新三要件は全く別物です。(解説は今回略)

しかし、集団的自衛権は他国への武力攻撃を契機とし、政府の判断で行使されるものであり、限定的な要件をたてたとしても、その判断は「政府の総合的判断」に委ねてしまう以上、政府に戦争開始の判断を与える事にほかなりません。

これは日本が武力攻撃を受けていないにも拘わらず、政府の行為によって日本から攻撃を仕掛けている事になります。

日本が攻撃されていないのですから、攻撃する場所は日本の領土外、つまり外国であります。

この結果、外国で敵兵士が殺傷され設備が破壊される。

これは自衛という名目の海外での武力行使そのものであり、交戦権の行使にほかなりません。

憲法9条一項に違反し、交戦権を否定する第二項に違反します。

たとえ自衛の目的であっても、その武力行使によって深刻な被害を受け、また、加害者となるのは国民自身なのであります。

ですから国民自らの意志で、こうした海外での他国民の橋や施設を破壊する権限を政府に与えるかどうか、これをみずから決定しなければなりません。
それが憲法制定権が国民にある、という事であり、主権が国民に存する、という意味であります。

国民にすれば、みずからを危険に晒す覚悟があるのか、みずから殺人の加害者になる覚悟があるのか、これを自ら決定する、究極の自己決定権の行使であります。

それが、憲法設定権をもつ国民が憲法改正の手続きを採り、集団的自衛権を行使できる国になる選択をする事にほかなりません。

当法案は、その国民の選択機会をまさに国民から奪うものであり、国民主権に反し、許されない、と考えます。

これだけ重要なことを憲法改正手続きも採らずに、憲法で縛られて戦争する権限など与えられていない政府の側で一方的に憲法の解釈を変更することで可能にしてしまう事など出来ようもなく、明確に立憲主義に反する、と言わざるを得ません。


(政府の合憲判断の根拠なし━━━47年政府見解)

政府が憲法上許される、とする根拠が昭和47年政府意見書と砂川判決であります。

共に根拠となる論証がなされていません。

「47年意見書の当初から限定された集団的自衛権は認められていた」と言うような事は、元・内閣法制局長官だった宮礼壹参考人が言うように「白を黒と言いくるめる様なもの」で、有り得ません。
当時の国吉長官答弁等、防衛庁、政府見解、によって完全に否定されているものであります。

更に、時代が変わったのだから自衛の措置として限定的な集団的自衛権までは認められるようになったのだ、と解釈することは、時代の変化による必要性が生じたから、これまで認めてこなかった武力行使を「必要性」だけで認めてしまう、という事を意味します。

法的安定性が根底から覆されるものであります。

しかも、昨年7月1日閣議決定では、47年見解の中核部分であるところの、
「しかしながら、だからといって「平和主義」を基本とする憲法が自衛の措置を無制限に認めているとは解せないのであって…」
という重要な記述をあえて脱落させています。

必要があれば自衛の措置として何でも容認してしまう、というこの解釈を許してしまう事は、武力の行使と交戦権を否定した憲法9条をなきものとし、政府に戦争参加を起こさせないようにする為に憲法で軍事力を統制した立憲主義に真っ向から反します。

この47年意見書は合憲性の根拠にはなり得ないものです。



(政府の合憲判断の根拠なし━━━砂川判決)

砂川事件最高裁判決は、集団的自衛権行使容認の憲法上の根拠にはなり得ません。

これまで指摘されて来た様に、砂川判決は集団的自衛権の可否を扱った判例ではありません。

(一般に)憲法判例が一定の規範的な意味を持つためには、公開の法廷で当事者の弁論によって争われた争点によって判断する事が必要であります。
持ち込まれた争点に対して法律専門家同士が議論を尽くし、裁判所が理性と知性によって法原理をさぐった結果だからこそ、その判決の内容を国民は信頼し、一定の規範としての意味を持つものに至るのです。

(それなのに)全く当事者が争点にせず専門家によって議論もされていない点について判例としての意味を持たせてしまうと、部外者による恣意的な解釈を認めることになり、裁判所の法原理機関としての正統性を失わせ、裁判所の権威をも失墜させてしまうでしょう。

この様に「当時、争点になっていなかったのであるから、集団的自衛権を認める規範としての意味はない」という指摘に対して、それでも合憲の根拠と言うのであるならば、

一、争点になってなくても「規範としての意義」がある。

または、

二、当時、争点になっていた。

この何れかを論証しなければなりません。

しかし、どちらの検証も政府側から為されておりません。

よって、法的にこの砂川事件の最高裁判決を集団的自衛権の根拠に使う事は許されません。


(結語)

最後に申し添えたい事がございます。

そもそも国会議員には憲法を尊重・擁護する義務が御座います。

どんな安全保障政策であっても、憲法の枠の中で実現する事、これが国会議員の使命であり責任であります。

昨年7月1日の閣議決定が違憲である事が、そもそもの問題の原因なのですから、そこにシッカリと立ち戻って憲法上の議論をしなければなりません。

良識の府である参議院の存在意義は衆議院に対する抑止であり、数の力の暴走に歯止をかける事にあります。

参議院の存在意義を今こそ示すことが必要と考えます。

国民はここでの議論、そしてこの法案に賛成する議員のことをシッカリと記憶します。

18才で選挙権を与えられた若者も含めて、選挙権という国民の権利を最大限に行使するでしょう。
昨年7月1日(20140701)の閣議決定以来、国民は立憲主義・平和主義・民主主義・国民主権の意味をより深く理解し、主体的に行動する様になりました。

これは、この国の民主主義・立憲主義・国民主権の実現にとって大きな財産になるものと考えます。

国民はこれからも「理不尽」にあらがい続けるでしょう。

戦争は嫌だ、という心からの本能からの叫びから、また、今を生きる者として次の世代への責任があるから、抗い続ける事でしょう。

それが、一人一人の国民の主権者としての責任だと自覚しているからであります。

その事を、ここにいらっしゃる全ての議員の方が深く心に刻む事を期待して、私の意見陳述を終わります。


前回、③まで続くと書いたが①の閲覧者が意外と想像以上に多かったので一気に書いてしまった。

右も左も他人事・人任せで、お互いに相手を罵り合い、侮蔑・軽蔑しあい、貶し合う事はもう止めにして、たまにはこの様な発言に耳を傾け、ソクラテスの「無知の知」を少しでも分かってもらえたらと思う。

今日は、ここまで、またね。