某大学の哲学の講義で、下記の様な質問形式から哲学者の思想を教えていく内容のものがあった。
質問1.あなたは電車の運転手で、時速100Kmで走っている。
前方を見ると、五人の作業員が線路の上で作業をしている。ブレーキは効かない。
このまま進めば五人は確実に死亡する。しかし、右側にそれる待機線があり、そちらに進むことも可能だが、そこには1人の作業員がいる。
果たしてどちらに進むのが「正しい」行為であろうか?
その理由と併せて答えよ。
あなただったら、どう答えますか? そしてどう理由付けしますか?
私はこれを読んだ時に「これで点数をつけるとは!」とこの設問に怒りました。
その後を読んで、生徒たちに議論をさせ、哲学を身につけさせる為の設問と分かり誤解がとけたのですが…。
[解説が下記の様に続きます]
この「一人が死ななければならないとしても、五人が助かれば良い。=結果が良ければいい」と、行為の「帰結」に道徳性を求める考え方はイギリスの哲学者J.ベンサムに代表されます。
「最大多数の最大幸福」といった「帰結主義」は「功利主義」に代表されるように、この考え方については、「個人の権利を尊重しない」→「人間についての基本的規範を侵害する扱いを認めることになる」との反論がなされています。
例:原発で働く作業員・テロ容疑者に対する拷問
こうして哲学講義は「幸福の最大化」やその反論「人間の尊厳の尊重」では汲み尽くせないものがある、として古代ギリシャの哲学者アリストテレスへと続いていくのですが、それは略します。
この解答で五人と答えた人が、他の人から「ひどいですね」と言われ、他の人との考え方との差異にショックを受けたそうだ。
私にはこの人のショックを受ける感覚を理解できないが、この質問に「一人の方に行くに決まっているじゃないか」と決めつけた答えを返すアナタにもひとこと言いたいのだ。
それは「どちらが正しいか答えよ」とするこの設問自体を問題視する態度が貴方にも必要だ、という事。
待機線で作業している一人が自分の知り合い(友人・自分の親兄弟・自分の子供)で直進する方の五人の作業員が見知らぬ人だったら、あなたはどちらに突っ込みますか?
つまり、何が言いたいかというと「当たり前じゃないか」「決まってるじゃないか」といった決めつけが危険な考え(心理)なのです。
その例として「カルネアデスの板」(緊急避難)状態の心理が挙げられます。
以下は私が以前に書いた日記のコピペ(余分なのも多いのですがそのまま載せます)。
この「緊急避難」「正当防衛」は“戦争を否定しない人達”の理論の根拠です。
人は「生きたい」とする生存本能があります。
食欲や性欲(子孫を残す)や睡眠欲等がこの生存本能についています。
従って自分は「死にたくない」「殺されたくない」といった考えから、どんな社会でも真っ先に「なんじ殺すなかれ」といった戒律が出来上がります。
同様に「自分は死にたくない」から“カルネアデスの板”(船の遭難で浮かんでいる板に摑まっていた人が同じくその板に摑まろうとしてくる人を“二人摑まったら二人とも沈んで溺れ死んでしまう”と相手を蹴飛ばして沈めてしまったとしても罪に問われない、というもの)といった「緊急避難」や殺そうとしてむかってくる相手を反対に殺してしまっても罪にならないという「正当防衛」の考えが生じます。
日本の法律でも「緊急避難」や「正当防衛」は認められています。
ただこれは個人でもよく見受けられる様に直ぐに「強迫観念」により「過剰防衛」となり易いものです。
私は「カルネアデスの板」状態の時にその板に掴まりに来たのが自分の子供だったら、子供を板に掴まらせて自分は板から手を離し沈んで行くでしょうし、逆にどうしても生きて愛する人の元へ帰りたいとの執念?がある時なら、板に掴まりに来る連中(自分の子じゃないよ)を片っ端から沈めて助かろうとするでしょう。
前の「質問1」で「5人」と答えた人は、岡林信康の「私たちの望むものは」の下の歌詞の心理状態だったのかも知れませんね。
♪私たちの望むものは、
あなたと生きることではなく
私たちの望むものは、
あなたを殺すことなのだ♪
「決めつけ」に走っている貴方にも、この様なカフカの「異邦人」の世界をもっと、知ってもらいたいと思います。
さて、この哲学の講義の「質問」にはもう一つ質問2があるのでそれを載せておく。
質問2.あなたは傍観者として線路を橋から見下ろしている。
線路上を電車が走ってくるが、ブレーキが効かないようだ。
その先では五人の作業員が線路の上で作業をしており、このまま進めば五人は確実に死亡する。
しかし、自分の隣にとても太った大男がおり、その男を突き落とせば、その電車を止めることができる。
その男を突き落とすのは正しい行為か?
その理由と併せて答えよ。
これは、質問1.の行為の「帰結」に道徳性を求めるベンサムやミルに対して「人間の尊厳の重視」を唱えるドイツの哲学者I・カントに代表される考え方で、「人を殺すのは無条件に間違っている」と行為の「帰結」ではなく、行為の「本質」を重視し、そこに道徳性を求めている。
私が、質問1.に対して「正しいのは『一人』に決まってるじゃないか」と決め付ける人に警告を発したいのは、この考え方は昔の血盟団といった似非右翼団体が標語として掲げる「一殺多生」に通じるからだ。
「一人の悪い奴を殺すことによって大勢の国民が助かるのだ」とテロ・暗殺が起こり、政府マスコミの報道の仕方により国民も彼らに同情したり助命嘆願の動きが活発化した昔を思い出す。(?)
そんなことが今の日本で繰り返されることのないように願いつつ、今日はここまで、またね。
質問1.あなたは電車の運転手で、時速100Kmで走っている。
前方を見ると、五人の作業員が線路の上で作業をしている。ブレーキは効かない。
このまま進めば五人は確実に死亡する。しかし、右側にそれる待機線があり、そちらに進むことも可能だが、そこには1人の作業員がいる。
果たしてどちらに進むのが「正しい」行為であろうか?
その理由と併せて答えよ。
あなただったら、どう答えますか? そしてどう理由付けしますか?
私はこれを読んだ時に「これで点数をつけるとは!」とこの設問に怒りました。
その後を読んで、生徒たちに議論をさせ、哲学を身につけさせる為の設問と分かり誤解がとけたのですが…。
[解説が下記の様に続きます]
この「一人が死ななければならないとしても、五人が助かれば良い。=結果が良ければいい」と、行為の「帰結」に道徳性を求める考え方はイギリスの哲学者J.ベンサムに代表されます。
「最大多数の最大幸福」といった「帰結主義」は「功利主義」に代表されるように、この考え方については、「個人の権利を尊重しない」→「人間についての基本的規範を侵害する扱いを認めることになる」との反論がなされています。
例:原発で働く作業員・テロ容疑者に対する拷問
こうして哲学講義は「幸福の最大化」やその反論「人間の尊厳の尊重」では汲み尽くせないものがある、として古代ギリシャの哲学者アリストテレスへと続いていくのですが、それは略します。
この解答で五人と答えた人が、他の人から「ひどいですね」と言われ、他の人との考え方との差異にショックを受けたそうだ。
私にはこの人のショックを受ける感覚を理解できないが、この質問に「一人の方に行くに決まっているじゃないか」と決めつけた答えを返すアナタにもひとこと言いたいのだ。
それは「どちらが正しいか答えよ」とするこの設問自体を問題視する態度が貴方にも必要だ、という事。
待機線で作業している一人が自分の知り合い(友人・自分の親兄弟・自分の子供)で直進する方の五人の作業員が見知らぬ人だったら、あなたはどちらに突っ込みますか?
つまり、何が言いたいかというと「当たり前じゃないか」「決まってるじゃないか」といった決めつけが危険な考え(心理)なのです。
その例として「カルネアデスの板」(緊急避難)状態の心理が挙げられます。
以下は私が以前に書いた日記のコピペ(余分なのも多いのですがそのまま載せます)。
この「緊急避難」「正当防衛」は“戦争を否定しない人達”の理論の根拠です。
人は「生きたい」とする生存本能があります。
食欲や性欲(子孫を残す)や睡眠欲等がこの生存本能についています。
従って自分は「死にたくない」「殺されたくない」といった考えから、どんな社会でも真っ先に「なんじ殺すなかれ」といった戒律が出来上がります。
同様に「自分は死にたくない」から“カルネアデスの板”(船の遭難で浮かんでいる板に摑まっていた人が同じくその板に摑まろうとしてくる人を“二人摑まったら二人とも沈んで溺れ死んでしまう”と相手を蹴飛ばして沈めてしまったとしても罪に問われない、というもの)といった「緊急避難」や殺そうとしてむかってくる相手を反対に殺してしまっても罪にならないという「正当防衛」の考えが生じます。
日本の法律でも「緊急避難」や「正当防衛」は認められています。
ただこれは個人でもよく見受けられる様に直ぐに「強迫観念」により「過剰防衛」となり易いものです。
私は「カルネアデスの板」状態の時にその板に掴まりに来たのが自分の子供だったら、子供を板に掴まらせて自分は板から手を離し沈んで行くでしょうし、逆にどうしても生きて愛する人の元へ帰りたいとの執念?がある時なら、板に掴まりに来る連中(自分の子じゃないよ)を片っ端から沈めて助かろうとするでしょう。
前の「質問1」で「5人」と答えた人は、岡林信康の「私たちの望むものは」の下の歌詞の心理状態だったのかも知れませんね。
♪私たちの望むものは、
あなたと生きることではなく
私たちの望むものは、
あなたを殺すことなのだ♪
「決めつけ」に走っている貴方にも、この様なカフカの「異邦人」の世界をもっと、知ってもらいたいと思います。
さて、この哲学の講義の「質問」にはもう一つ質問2があるのでそれを載せておく。
質問2.あなたは傍観者として線路を橋から見下ろしている。
線路上を電車が走ってくるが、ブレーキが効かないようだ。
その先では五人の作業員が線路の上で作業をしており、このまま進めば五人は確実に死亡する。
しかし、自分の隣にとても太った大男がおり、その男を突き落とせば、その電車を止めることができる。
その男を突き落とすのは正しい行為か?
その理由と併せて答えよ。
これは、質問1.の行為の「帰結」に道徳性を求めるベンサムやミルに対して「人間の尊厳の重視」を唱えるドイツの哲学者I・カントに代表される考え方で、「人を殺すのは無条件に間違っている」と行為の「帰結」ではなく、行為の「本質」を重視し、そこに道徳性を求めている。
私が、質問1.に対して「正しいのは『一人』に決まってるじゃないか」と決め付ける人に警告を発したいのは、この考え方は昔の血盟団といった似非右翼団体が標語として掲げる「一殺多生」に通じるからだ。
「一人の悪い奴を殺すことによって大勢の国民が助かるのだ」とテロ・暗殺が起こり、政府マスコミの報道の仕方により国民も彼らに同情したり助命嘆願の動きが活発化した昔を思い出す。(?)
そんなことが今の日本で繰り返されることのないように願いつつ、今日はここまで、またね。