森にようこそ・・・シャングリラの森

森に入って、森林浴間をしながら、下草刈りをしていると、自然と一体感が沸いてきます。うぐいすなど小鳥たちと会話が楽しいです

世界遺産を考える

2016-03-31 14:56:26 | 思うまま
 世界遺産は、ユネスコが1972年に制定し、2015年時点で1,031件の登録が認められている。
我が国においても多くの施設が登録になっており、観光の目玉となっている。現在の全国各地に
登録を求める活動が活発に動いているという。
 これにの文化的、歴史的遺産はそのほとんどが負の遺産だと思っている。作られた当時の権力者が
その権力を利用し、自らの権威と名声のために、民衆を奴隷扱いし、建設費用をも民衆から取りたてて
作られたものではないだろうか。そこには、血と汗と命を賭して強制的に従事させられたことであろう。

 そのような環境の下で建造された施設が現代、環境拠点として多くの人が見物にきている。それはもう
環境産業化してまるで宝の山のごとくの扱いである。この現代の有様を当時に使役された人々はどのように
感じるであろうか。

 ユネスコが音頭を取って認定しているが、果たしてこのような当時に犠牲を強いられて作り出された施設を
人類の遺産として残すのであれば、負の遺産であったことを観ん物者に明確に伝えるべきであり、ただ、建造物が
古くて巨大であるというのでは、彼らはうかばれないだろう。どの国も世界遺産が沢山あるからと決して自慢
すべきことではないだろう。ユネスコや国や自治体として作られた当時の人びとのことを考えるべきだと思う。
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運・・・努力と偶然の賜

2016-03-31 09:27:57 | 思うまま
 人によっては運のいい人と悪い人がいるようです。この運[うん]とはどういう意味なのでしようか。
よく人びとは成功したり優勝した時に、自分は運が良かったと言われていることがよく見られます。
これは、自分の努力と実力で獲得したものと思っているけれども、日本人は謙虚な気持ちを込めて
「自分の実力ではなく、運が良かったからです。」という。
 
 日本人特有の美徳として謙虚な態度をとりますが、欧米人から見れば、果たして謙虚と見るかと思う。
欧米人から何と思われようと、日本人の美徳なのてあるから気にすることはない。それよりも、うまく
事が進まなかった時に「自分は運が悪かった」と運の性にする人も少なくないだろう。

 「運」とは、「はこ」ぶという文字の通り、只、偶然に起ったことではない。運とは、努力と偶然の
結果であると思う。この努力については、自分のことしか考えない努力では、いけないと思う。利他の
ためになる方向でなければならない。しかし、難しいところは、そのような健全な努力を積み重ねても
偶然の表れ方が必ずしもプラスに出ない時もある。

 確かなことは、賢明な努力をしなければ、良き偶然と出会うことが極めて少ないということだ。難しい
ことであるが、うまくことがはこんだ時には、運が良かったと思い。悪い結果を招いた時には、自分の
努力が足りなかったか、賢明ではなかったためだと反省することだ。そういうところから、今後の巡り
合わせが良い方に進むものと理解すべきだろう。

 本日で3月も終わりだ、札幌の積雪も完全に無くなった。これからしばらくは、冬の間にたまっていた
車紛などのほこりが舞う日々がある。50年くらい前なら馬糞が舞っていたことを思えば、我慢もさほど
苦にならない。

 
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道の精神・・・日本精神の真髄

2016-03-30 09:42:08 | 思うまま
 世に「道と」名の付くものがある。茶道、華道、武道等はなじみのある。戦後になって経営道とか、人間道という考えかたも
あるようです。何故我が国においてこのように「道」という考え方をするのだろうか。また、どのような意味合いで使われている
のであろうか。私は専門家でも学者でもないので、感覚的にしか述べることはできない。

 解り易い例から言えば、「武道」について言えば、別の言い方をすれば武術ということになる。どこが違っているかと言えば武道には、
武とは、つまり戦う、防御するという意味の他に、その技に人間性を加味されたことを意味するのが「道」である。
人間性を含めるとは、つまりは、武を通して悟りに近づく、魂を磨くという要素が大きく入ってくると考えられます。どのような・・道に
おいても同じ要素を含んでいます。技や動作に精神性を加味されたものがそれぞれの道として呼ばれているものです。
 それに対して、武術と言えば、相手に勝つための術を磨く目的とした要素が強いと言える。

 それでは、人間道という言い方はダブっているようにも思える。人の道に反するとか、どうだとかという言い方がありますが、
人間としての道徳から宗教的な悟りを得るという意味合いも強くなっていると考えられます。また、経営道についても、只利益を
上げる事だけでなく、経営活動の諸活動において、人間性を入れて情と合理性をともに極めていくということになるものと思う。

 我が国の今日には、武士道精神といっても、とても時代にそぐわない。武士の時代が終わった。現代で言えば、仕事道、職人道
や行政道、政治道という名前をつけて、官僚的、事務的、惰性的にならずに、携わる業を通して人間性を高める働き方をすべきでは
ないかと思う。
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生を充実にするために・・・死を考える

2016-03-29 09:33:28 | 思うまま
 過日、生を考えることは死を考えることで、生死一如と言った。生を如何に充実するかについては、
誰もが考え思い描いていることである。反面、死については考える人はそう多くない、いや、考え
たくないと思っている。高齢になったら考えるかと言えば、考えないこともないが、なるべく避けて
一日一日を過ごしているのではないだろうか。
 残念ながらこの世に存在し生きている存在は全て死を迎える。生あるものは死を迎えるこれを
生死一如と言っている。葉隠れ武士の精神「武士は死ぬことと見つけたり」と。昔の武士に限らず
どんなに偉い身分の高い人でも、どれほど沢山な財産をもっていて、世界最高水準の医療をうけよ
うと間違いなく誰もが死を免れることはできない。改まって言うまでもないことである。

 仏教においては、極楽浄土が存在しているように、信心を勧め、念仏を唱えればそこに行くことが
できると説教している。仏教の始祖であるお釈迦さんは、たしか死後は語らずと言っていたのではと
思っているが、誰がどのような根拠があって極楽浄土と言いだしたか。学びが足りないので知る由も
ない。しかし、死後の存在をどれほど理屈をつけても誰も証明することはできない。それであれば、自
らの意志で想像すればいいのではと思う。
 死後について専門的、学問的に調べれば調べるほど迷路に入ってしまう。複雑に考えないで簡単かつ
単純に考えるてみると、「死後の存在はある」と思う。これでいいのではないでしようか。理屈はいら
ない。有ると思うかそれとも無の世界で何にもないと思うかの選択である。
 私の認識しているところでは、宗教と名の付くものは、どのようにすれば、極楽浄土なり天国にいく
ことが出来るかについて説教されているように思う。つまり、それは生を如何にするかということに
尽きるのだろう。私は死後の世界、例えば極楽浄土か天国は必ずある、死後は必ずだれでもそこに行く
ことができると思っている。要は極楽浄土、天国があると信じることだと思う。その名称は自分の好む
ものを考えればいい。

 そこで、問題になるのが、死んで見たけれども、そこには何にもない無の世界であったとした時には、
その存在の有無を意識することができないのであるから、それまでだということだ。何らかの存在があれば
これが死後のたどり着いた世界かと思えることになる。だから、あると思っても何も困ることも苦しむ
こともないわけであるから、私は唯あると思いたいということになるのである。
 死を考える他の一面として、何時死を迎えるか、どのような状態で死ぬのかこのことを突き詰めて考え
ると、自らで命を絶てなければならなくなるので、これらのことについては考えないことだと思う。それは
誰にも分らないことであるから、生きられるだけ精一杯生きようと覚悟というか決意を固めることが大切な
事だと思っている。
 70歳80歳を超えてくると、死までの秒読みならぬ、年読みが始まるといえる。いずれにしても限られた
時間だ、誰もが通過することだから、極端に恐れ、もがかないためにも、与えられた一日一日を精一杯生きた
いと思う。
 3月29日は、仏滅とあるこれも何かの仏縁かもしれない。
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日本的民主主義とは・・・聖徳太子の17条憲法

2016-03-28 09:54:25 | 思うまま
 「国民による、国民のための政治」、これが民主主義の定義の一つとなっている。この定義には、
二つの基本理念がある。まずは「国民による」そして「国民のための」という二つである。国民に
よるとは、選挙で国民の意思を確かめて選ばれた議員が政治を担当する。そして、多数を取った党が
与党となって国会で政策を多数決の論理で決めていく。
 しかし、現実の選挙では国民の投票率が5割前後という背景で与党が決まってしまう。そうなると
与党と言えども、国民の選挙民の3割程度しか確保していないことになる。これでは、「国民のための」
という一方の理念を如何に反映さすのかという重要な課題がある。与党は野党の意見を少数意見として
何を言っても耳を貸そうとしない。これでは民主主義とはとても言えないのではないか。

 70年前の敗戦から欧米から押し付けられた民主主義と謳っているように思える。我が国にはそれまで
民主主義的な理念がなかったのだろうか。70年前までは、帝国主義であったり、それ以前は封建主義で
あったと思っていないか。我が国には古く聖徳太子の17条憲法という理念がある。
 その代表的なものが第一条のいわゆる「和をもって尊しとなす・・・」ということから、わが国の基本
理念としてこの「和」の精神を国民の一致した日本的理念となっている。和を大切にするということから、
議論というものをよしとしない。上からの指示に逆らってはならないという短略的に解釈されているようだ。

 聖徳太子の17条憲法のしめくくりの第17条に次のようにある。
 「17に曰く、夫れ事独り断(さだむ)べからず。必ず衆(もろもろ)と論(あげつら)ふべし。少(いささけ)
き事は是軽し。必ずしも衆とすべからず。唯大きなる事を論ふに逮(およ)びては、若しは失(あやまり)有ることを
疑ふ。故、衆と相弁(あひわきま)ふるときは、こと即ち理を得」とある。
 これは小さな事は独りで決めてもよいけれども、といい、大きな事については、異なる視点からよく物事を眺め
他に意見に耳をかたずけよという謙虚な姿勢を述べているのである。これらの意味するところは現代の欧米から取り入れ
られた民主主義をはるかに民主的と言えるだろう。このように我が国には、古くから民主的な理念が存在していた
のであるから、これから日本的な民主主義の確立が求められると考えます。私は、歴史学者でも古典の専門家でもなく、
一志井の立場から思うのです。

 本日の札幌は10℃を超える晴天になっており、これで町々の陰になっている積雪の雪も溶けてしまうだろう。
スズメたちも元気な歌声を聞かせてくれている。

 
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