唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

李國貞/李若幽伝

2019-05-04 10:16:11 | Weblog
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李國貞/李若幽伝
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淮安王神通の子。淄川王孝同の曾孫。父は劍州長史廣業。

本名若幽、字は南華。賜名され國貞。

綿州參軍事、扶風錄事參軍を歴任。

殿中侍禦史襄陽郡司馬、房陵太守を経て長安縣令[秦州・汴州刺史は不任]。

至徳二年四月.郭子儀麾下として安禄山将李歸仁を白渠留運橋に破った。

乾元中.名門出身であり硬骨で吏才があったため京兆少尹から河南尹。

二年九月.史思明が東都を陥した時は陝州に僑治する。

まもなく京兆尹。

上元元年三月.成都尹御史大夫劍南節度使。

殿中監。

二年八月.宦官勢力は郭子儀や李光弼などの武将を信用せず、國貞を通議大夫戶部尚書御史大夫持節朔方鎮西北庭興平陳鄭節度行營兵馬及河中節度都統處置使.權知絳州刺史として大軍を率いて絳州に進出させた。
ついで賜名.晉絳慈隰沁等州觀察處置使を加えられる。

ところが現地には糧食の蓄積は乏しく、現地は軍乱により荒廃していた。
寶應元年八月.兵士達は憤懣し乱を起こし國貞や鎮西北庭行営節度使荔非元禮は殺された。四十八歳。贈揚州大都督。

清廉で守法の吏ではあったが軍人統制は不得手であったようだ。
唐朝は狼狽して郭子儀を副元帥として派遣し鎮定させた。
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辛秘伝

2019-05-03 09:59:38 | Weblog
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辛秘伝
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秘は隴西の人。字は蔵之。贈左常侍璿の子。

貞元中,明經に合格し華原主簿/尉。判に入り長安尉。

太常卿高郢が太常博士に推薦。

祠部員外郎兼博士。

兵部員外郎兼博士。

山陵及郊丘二禮儀使判官、禮典に通じていた。

元和元年.憲宗初,湖州刺史。

二年.浙西李錡の反に湖州を守り、賜金紫。

河東節度范希朝行軍司馬主留務.御史中丞。

左司郎中。

京兆少尹。

六年.汝州刺史.防禦使。

九年.諫議大夫。

常州刺史。

十一年.河南尹、治績あり。

十二年八月.郗士美に代わり檢校工部尚書.潞州大都督府長史御史大夫昭義軍節度澤潞磁洺邢等州觀察使。成德戦役で疲弊した昭義軍を再建。

元和十五年十二月.歸途に卒,年六十四,贈尚書左僕射,諡曰肅,後更諡懿。

清廉で、俸禄も親族に分配し財を築かなかった。
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劉悟伝

2019-05-02 10:13:21 | Weblog
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劉悟伝
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悟の祖父は平盧節度使正臣、叔父は宣武軍節度使全諒。

宣武軍牙將となるが、法を犯し潞州に逃亡。

昭義軍節度使王虔休の將となる。

しかし病となり東都に帰り、全諒の資産を蕩尽して豪遊し不法投獄。

東都留守韋夏卿に釈放され、淄青節度使李師古[同じ平盧軍系]に引き取られる。

師古に評価され親族に加えられ牙將となる。

師道が反し、曹州に屯して寛大で人望あった。

淄青節度都知兵馬使兼監察御史となる。
  
十四年.憲宗皇帝の淄青討伐が始まり、魏博節度使田弘正が陽谷から、盧縣を取った。
悟は主力軍を率いて阿井に防いでいたが、小心な師道は疑心暗鬼の状態にあった。

二月.師道が悟を殺そうとすると、不利な情勢を知る諸将と共に反し、鄆州を襲撃し師道一族を殺した。
弘正に降り、檢校工部尚書兼御史大夫義成軍節度使.封彭城郡王實封戶五百となる。
最初、淄青節度使を継承できると思っていた悟だが、憲宗皇帝が許すはずもなく、麾下の二千の兵と幕僚をつれて赴任した。

元和十五年正月.入朝,進檢校兵部尚書。

穆宗立,検校右僕射。

十月.魏博へ移る李愬の後、檢校右僕射兼潞州大都督府長史充昭義節度澤潞邢洺磁等州觀察等使に移る。

長慶元年七月.幽州朱克融の乱で、節度使張弘靖が囚せられると。
檢校司空兼幽州大都督府長史充幽州盧龍軍節度副大使知節度事として後任となるが邢州に至ったとき。
成德王廷湊も自立したため入れなかった。

一応、兼幽鎮招討使となり邢州に屯し、臨城を囲むが観望。

昭義軍節度使に戻る。

二年二月.不仲な監軍劉承偕に解任を計画され幽囚する。

三月.承偕は貶され,悟は専横となり、高言し亡命者を集めるが、
惰弱な皇帝と姑息な宰相達はこれを抑えることができなかった。検校司徒。

三年九月.同平章事。

寶曆元年八月/九月,師道の祟りを怖れて仏道に浸りやがて卒した。
贈太尉。
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辛京杲伝

2019-05-01 10:10:00 | Weblog
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辛京杲伝
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旧紀には伝なし

京杲は河東節度使雲京の從弟、字は京杲。

朔方節度使信安郡王禕に仕える。

その後李光弼に従い、嘉山に戦功。
鴻臚卿員外.英武軍使。

代宗が即位すると封肅國公,左金吾衛大將軍

晉昌郡王に進む。

左羽林大将軍。

大暦五年四月.湖南兵馬使臧玠が厳正な觀察使崔灌を殺し、京杲が湖南觀察使となり鎮圧する。

しかし京杲は収斂を好み、豪族王國良を脅かして反させるなど、湖南を乱した。

大暦十四年.入朝。

建中元年三月.皇帝の側近張渉への贈賄が発覚し、德宗は激怒した。しかも配下を不法に殺害した事件も起き有司は死刑にあたるとした。

德宗は武臣の中心人物である宰相李忠臣に諮問すると、
忠臣「京杲が生きていること自体が間違いです」
忠臣が京杲を庇うと思っていた德宗は啞然とする。
忠臣「京杲の親兄弟は皆、国のために尽くし死んでしまいました。あいつだけが生き残って恥をさらしています。さっさと誅殺して辛家を絶やしてしまわれるのがいいでしょう」
大功ある辛家を絶やすわけにはいかず德宗は王傳に左遷するだけにした。

工部尚書として致仕。

四年.朱泚の乱に際しては老病により奉天に従えず卒、贈太子少保。
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