唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

貞元十六年(800年.延暦18年)

2006-10-24 18:39:52 | Weblog
淮西への敗北を指揮権の不統一によるとみた朝廷は、夏綏節度使韓全義を最高指揮官とした。
しかし全義は宦官とつながり、政治的な立ち回りばかりうまい無能な将軍であり、諸軍を統制できず、廣利・五樓と敗戦を重ねた。
敗戦の主な原因は宦官の口出しによる混乱と、戦闘意欲のない無統制な藩鎭の兵力にたよっていたためであった。
五月には淄青への押さえである徐泗濠節度使張建封が亡くなり、その子愔が自立したことによって、徐州をも失うこととなった。
ただ西川方面では韋皐が吐蕃を次々と破り失地を回復していっていた。
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貞元十五年(799年.延暦17年)

2006-10-24 17:44:18 | Weblog
二月宣武軍節度使董晉が死ぬと、さっそく軍乱が起きて劉全諒が自立し朝廷の管轄下から離れた。
三月淮西呉少誠を討伐することとなり、各地の藩鎭がてんでに包囲攻撃を行った。討伐軍は次々と捷報を送ってきたが、実際は淮西軍が優勢であり、軍費をもらうために形だけ騒いでいるだけであった。
しかも年末には烏合の衆である討伐軍は小※[さんずいに殷]河で壊滅的敗北を喫してしまった。
淮西軍は東都・陳許を攻撃する形勢が強まっていった。
唯一の好転事項としては宣武軍において呉少誠と通じた劉全諒が死亡し、朝廷よりの部将韓弘が自立したことたげである。

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貞元十四年(798年.延暦16年)

2006-10-23 20:29:12 | Weblog
春から夏にかけて關内各地で軍乱が続いた。これは吐蕃防衛前線への配置換えを嫌う兵士達の不満が爆発したものだが、それぞれの規模は小さく鎮圧は容易だった。淮西節度使呉少誠は反抗姿勢を強め近隣各地を侵略しつづけている。
また年末には浙東[浙江省東部]では部将栗鍠が蛮族とともに反乱を起こした。
宗の神策軍育成は一応効果をあげ十五万にも及ぶようになった。
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貞元十三年(797年.延暦16年)

2006-10-23 17:55:59 | Weblog
正月宗皇帝は先の鹽州築城に加えて、吐蕃の進入路を防ぐため、方渠などの三城建設を企画した。
宗は大軍動員を予定したが。邠寧節度使楊朝晟は意外にも自軍だけで可能であると回答し三月には三城を完成させた。これにより吐蕃に対する長安防衛体制は確立した。
義成軍など節度使に派遣された監軍[宦官]は各地で専横を極め、弊害を及ぼすことになったが宗はこれを咎めなかった。
年末には一時なりをひそめていた淮西軍節度使呉少誠が反抗の構えをみせ始めた。
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貞元十二年(796年.延暦15年)

2006-10-22 09:05:23 | Weblog
正月、宗はご機嫌取りとして平章事や検校僕射などの官職を、全国の藩帥にばらまいた。これらは虚名ではあるが名誉職として藩帥の権威づけには有効であった。四月には魏博節度使田緒が死亡したが、田家の世襲は揺るがず、子の季安が継承した。
宗は宦官を重用し、六月神策軍に護軍中尉を置き完全に宦官支配とし、これより宦官の継続的な専権が強まっていった。
七月には宣武軍節度使李萬榮の病死後、柔軟で老獪な元宰相董晉を送り込むことに成功し一時的に宣武軍を回復した。
九月には皇帝の信任のみが厚く、官界の鼻つまみであった裴延齢が病死した。
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貞元十一年(795年.延暦14年)

2006-10-21 17:00:38 | Weblog
前年末には徴税に長けていて宗の信任の厚い裴延齢に逐われ、宰相陸贄が失脚し、その党が一掃された。五月に河東節度使李自良が亡くなり、後任には行軍司馬李説が昇進したが、実権は監軍[宦官]王定遠が握り専権を極めたため七月まで混乱が続いた。また八月には司徒の馬燧もなくなった。九月には河北藩鎭の横海軍で内乱が起こり、節度使程懷直が逐われ、一族の懷信が跡をついだ。河北では節度使の世襲が行われていたとはいえ、その地位は不安定で親衛軍である牙軍の意向しだいで廃立がおこなわれる状況であった。

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貞元十年(794年.延暦13年)

2006-10-21 08:56:54 | Weblog
南詔[雲南蠻]は吐蕃を攻撃して神川で大勝し唐との友好を深めた。吐蕃勢力は剣南方面では弱化し、唐=南詔連合が優勢となった。
六月には河北藩鎭にたいする抑止力となっていた昭義軍節度使李抱眞が亡くなり、昭義軍はその跡目争いで、王虔休と元誼との争いが続くことになり弱体化したが、河北藩鎭もまた内部紛争が続きつけいることはできなかった。
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貞元九年(793年.延暦12年)

2006-10-21 08:31:41 | Weblog
二月には大軍を動員して鹽州城を再建した。このため長安地域への吐蕃の侵入は困難となり人心は安定した。西川節度使韋皐は積極的に吐蕃を攻撃し大破するとともに、侵攻の手先となっていた西山地域の蕃国[西山八国という、女王国もあった]を慰撫し帰服させた。そのため西川では勢力関係が逆転することとなった。八月には朱の乱を鎮定した大尉李晟が亡くなり、もう一人の名将司徒馬燧も老耄して騒乱の時代が去ったことを感じさせた。内地では宣武軍節度使で動乱が続き、劉士寧は逐われ部将李萬榮が自立した。
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貞元八年(792年.延暦11年)

2006-10-20 17:29:09 | Weblog
三月、宣武軍節度使劉玄佐が死亡した。朝廷は陝虢観察使呉湊を後任として派遣したが、玄佐の子士寧が自立し入ることができなかった。河北・淄青・淮西などにならい宣武も半独立の状態となった。宣武[汴州]は江南からの租庸輸送の中継地点であり、唐はその回収に苦慮することになる。また山東節度使曹王皐もなくなり軍乱が起きたが、こちらは鎮圧することができた。中央政界では宰相竇参が失脚し、その党が一掃され、陸贄が実権を握ることになった。

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貞元七年(791年.延暦10年)

2006-10-19 13:20:54 | Weblog
原節度使劉昌[元宣武軍将]は平涼城など諸寨を再建し、吐蕃の進入路を防ぐことに努めた。宗皇帝は建中年間の朱の乱に役に立たなかった禁軍のあとに神策軍を宦官に統御させて再建中であったが、その弊害として神策軍吏が横暴を極めることになった。また四月には安南都護[ベトナム北部]高正平が苛政によって反乱を引き起こしたが、幸い死亡したため乱は自然に治まった。西南部では西川節度使韋皐は雲南蠻を招撫し、対吐蕃防衛線を強化していった。
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貞元六年(790年.延暦9年)

2006-10-19 13:19:42 | Weblog
河北藩鎭では、淄青・魏博節度使と成徳節度使の間で領土紛争が起き、互いに攻めあった。この事態は朝廷にとっては都合のよいことであり、仲介者として振る舞った。回紇[ウィグル]は吐蕃と戦ったが形勢は悪く、その勢力下の北庭都護府は陥落することになった。一時は勢力が強かった回紇ではあるが、唐の物資に依存してこのころにはすっかり軟弱となっていた。
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貞元五年(789年.延暦8年)

2006-10-18 15:21:56 | Weblog
対吐蕃防衛戦略が功を奏しだし、侵攻に対抗できるようになってきた。特に西川方面では、節度使韋皐は吐蕃を撃破し、失地である嶲州を回復した。また嶺南[広東]節度使李復は、則天時代から失われていた瓊州[海南島]を賊より奪回した。三月には皇帝の謀臣として活躍した宰相李泌が亡くなった。

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貞元四年(788年.延暦7年)

2006-10-17 13:44:55 | Weblog
あいかわらず吐蕃の侵攻が続き人的・物的被害は甚大である。唐は対策として、宣武軍節度使劉玄佐を原副元帥[元帥は親王で飾り]として起用するが玄佐は動かない。外交面では回紇[ウイグル]に公主を送り盟約する。こちらは効果があり回紇は吐蕃と絶つことになる。また西川[四川]節度使韋皐が雲南蠻に働きかけて味方に付ける努力を重ねている。年末には効果があがり、雲南蠻は唐と協力し吐蕃を攻撃し大破した。
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貞元三年(787年.延暦6年)

2006-10-16 18:26:41 | Weblog
この年、宗皇帝は侵攻を続ける吐蕃[チベット]との和約を図った。吐蕃の首領尚結賛は言葉巧みに和を持ちかけ、武臣の代表である河東副元帥馬燧はそれに応じた。もう一人の武臣代表である鳳翔副元帥李晟は吐蕃を信用できないと反対したが、政敵である宰相張延賞の暗躍により、兵権を奪われ大尉[名誉職]に祭り上げられた。閏六月、水で和約を結ぶことになり、副元帥渾かん※[たまへんに咸]が代表となって出席したが、吐蕃は盟を裏切り代表を捕らえようとした。渾かんはかろうじて逃れたが多くの将吏が死亡した。このため馬燧も失脚し、張延賞は失意のため亡くなり、吐蕃とは全面対決を続けることとなった。こののちも吐蕃の侵攻は続いたが、唐側の防衛体制が整っていき被害は小さくなっていった。この事件は唐側に根強い吐蕃不信を与えることになった。
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講武

2006-10-12 18:22:06 | Weblog
「なんだこのだらだらした隊列は」

「これではまるで遊びではないか」

玄宗の顔に怒りが浮かんだ。

時は二十万の兵を集めた驪山での演習であった。

「演習の責任者は誰だ」

「兵部尚書の郭元振であります」

「斬れ、それが軍法だ」

玄宗の下知に周囲がざわめいた。

「元振は社稷の功臣でございますぞ」と

宰相張説・劉幽求がこもごもに取りなした。

「それでは解任だ、軍禮の責任者は?」

「給事中唐紹でございますが・・・」

「斬れ」

玄宗の下知が下るやいなや、金吾将軍李邈は紹を斬った。

誰も止める間がない早業であった。

「・・・・・」玄宗は絶句した。

本当は誰かがまたとりなすと思っていたのだ。

「おっちょこちょいめが」

邈は解任され遂に起用されることがなかった。
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