唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

十四年

2006-09-15 19:13:38 | Weblog
「とどまってはくれないのか?」

「いつまでも俗塵にふれていては修行の妨げになりますので」

「せめて長壽の道を教えていただきたい」

「女道楽や食道楽をやめ、摂生しを施せば長壽に恵まれます」

「しかしそれは楽しい道ではございませぬ」

「皇帝の生活とは両立できぬものでございます」

道士軒轅集は宣宗皇帝の問に答えた。

「一年間とどまって朕を補佐してくれたら、羅浮山に道觀を立ててやろう」

「建物などはすべて無用の事でございます」と集はつれない。

「それではせめて朕の在位年数だけは教えてくれ」

集は筆を執り四十字を書き、そのうち十四字だけを跳ね上げて書き
山へと去っていった。

宣宗は在位四十年と解釈し喜んだ。

しかし會昌六年から大中十三年の十四年間が宣宗の在位であった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奉天

2006-09-14 18:28:22 | Weblog
「なにか気になることが出ているのか」

易占のあと顔を曇らせた桑道茂をみて、宗皇帝は問うた

「今すぐとのことではございませぬが」と道茂は言葉を濁した。

「気になる、なんだ」

「陛下、数年のうちに京師を離れるようなことが起こるかもしれません」

「なに、それは外寇か?」

「そこまではわかりかねます、ただ陛下が外遷されるということは確かです」

「そして奉天の地に天子の気がございます」

「奉天に堅固な城を築くことをお勧めいたします」

「縁起でもないことだが」

「しかし吐蕃の襲来があるのかもしれん」と宗はつぶやいた

「城を築いておいて悪いことはないな」

さっそく京兆尹に命じて奉天城を強化させた。

それから三年後の建中四年、朱が京師で反乱した。

宗は奉天に奔り、必死の防戦をすることとなった。

形勢は極めて危うかったが、強化した城はなんとか持ちこたえることができた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

帝舅

2006-09-13 17:55:19 | Weblog
「どうされたかの、義父上」

宣宗の義父鄭光があたふたと入朝し拝謁を求めた。

「昨日、家令が京兆尹の手先に捕まってしまっての」

「釈放を求めたんだが、韋澳は絶対認めんと言っている」

「すべてを任した家令なんで、困っているんじゃ」

「なんとか澳にいってやってはくれんかのう」

帝舅とはいえ、あまり能も才もない光はおろおろと訴えた。

やがて京兆尹の韋澳が入朝してきた。

「光の家令を釈放してやってくれ」と帝

「それでは陛下の法は貧民にだけ適用されるのですか?」

「京師の政が乱れているというので私を任命されたわけですが」

「光家は何年も租税を納めていませんし、督促も無視しています」

「豪家はみな税を踏み倒し、貧家だけに負担させているんですよ」

と澳はまくしたてた。

たじたじとなった帝は

「義父には法を守るように強くいうので、今回だけはなんとかしてくれ」

とたのんだ。

澳は京兆府に帰り、さっそく家令を鞭打ち、今までたまった租税を
あらいざらい納めさせてから釈放した。

京師の豪家は粛然として政令にしたがうようになった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

内侍権勢

2006-09-12 08:50:14 | Weblog
「甘露の変で李訓・鄭注達は確かに罪があったが」

「しかし王涯・賈餗などは無罪でまきこまれただけだ、殺害は間違いであった」

「そろそろ冤罪は取り消さねばならんな」

と宣宗皇帝は考えていた。

方策を相談しようと学士の韋澳を招いた。

近臣の宦官達にわからないように詩のやりとりで意見を聞いた。

澳は長く沈黙していたがやがて帝に問うた。

「現在と以前では宦官の権勢はどちらが強いと思われますか」

「現在と以前では皇帝の威権はどちらが強いと思われますか」

帝は答えず目をとじ首をゆらしてさらに長く沈黙した。

やがてつぶやいた

「無理かな、無理かな」

周辺では宦官達が冷ややかに見まもっていた。

名君といわれた宣宗の晩年のことであった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

開城

2006-09-11 08:55:13 | Weblog
潞州城は河東李克用の將李嗣昭の兵に囲まれている。

しかし籠城の体制は万全であり、数ヶ月程度はびくともしない。

そのうちには朱全忠の援軍が到着するはずだ。

河東軍も攻囲したものの半分あきらめていて、急攻しようとはしない。

しかし城内では守將丁會が悩んでいる。

「全忠様は古くからの仲間を次々と粛正している」

「狡兎死して良狗烹られる」ということもある。

やや老いて気弱になってきた會には気になる。

全忠が盗賊の仲間であったころから仕えているので

いろいろと表に出せないことを知っている。

やがて皇帝にならうとする全忠にはじゃまであろう。

「俺はいつも最前線に送られていた」

「死ねばよし、守ればよしか」

城外の大軍を見ていると、なぜか非常な疲れを覚えていた。

昭宗皇帝を弑逆されたという報が入ったとき。

會の中でなにかが切れた

「もうたくさんだ、休みたい」

會は開城することを決めた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

太后自殺

2006-09-10 18:57:42 | Weblog
「大変、大変でございます」

「騒々しい何事だ」

「郭太后様が勤政樓より落ちらて亡くなられました」

「なに!」

大中二年のことである。

憲宗の妻であり、穆宗の母である郭太后が投身自殺した。

時の皇帝宣宗はやはり憲宗の子で鄭氏の子である。

宣宗は憲宗の暗殺事件に郭太后がからんでいると疑っていた。

しかも鄭氏は、かって郭太后の侍女であるがゆえの恨みをもっていた。

そのため太后にたいして極めて冷たい態度を示していた。

太后自身も、傍系より即位した宣宗に対する反感を示していた。

「朕にたいしての当てつけか」

と宣宗は激怒した。

そして禮院官達の反対をおして

憲宗陵へ合葬せず、側地に埋葬することとした。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

陰図

2006-09-09 18:51:40 | Weblog
「くそ、藩の奴図りやがったな」

「あのままなら俺が武寧軍の節度使になっていたはずだ」

濠州刺史杜兼は怒り狂っていた。

名門の兼にとって刺史などでは不満であった。

武寧の張建封が重病と聞き、見舞いと称して徐州に入った。

そしていろいろと工作を始めた時

建封の幕僚である李藩より問いつめられた。

「節度使が重病の時に支州の長が州を離れてよいものでしようか」

「州を守るため速やかにお戻りください」

一言もなく兼は帰るしかなかった。

州に帰り着くまもなく建封の喪が発表された。

そして子の?が自立することになった。

「あの時、建封は既に死んでいたんだ・・・」

「もう少しで乗っ取ることができたのに」

「藩め、思い知らしてやる」

兼は、藩が?の自立を図ったと誣告した。

そのため皇帝の審問に呼び出されることになったが

藩の風儀と安雅さに感じた帝はかえって任用することになった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

違約

2006-09-08 21:28:18 | Weblog
渭水の戦いで安慶緒軍を大破した。

賊は京師を棄てて東奔した。

回紇葉護は郭子儀軍とともに京師へ向かっていた。

「京師の金帛・女は自由にしてよいという約束だったな」

「取り放題、姦り放題だぜ」

周囲の回紇兵達は沸き立っていた。

道に唐の元帥廣平郡王俶が立って拝していた。

「葉護様にお願いがあります」

「京師は回復されましたが、関東はまだ回復されていません」

「もし京師で掠奪強姦ということになれば、東京回復は困難になります」

「十分に御礼はいたしますので、掠奪強姦はおゆるし願うわけには」

あわてて下馬した葉護は

「まあそうかもしれませんな」とつぶやいたが

周囲の回紇兵は不満にざわめいた。

「城南に金帛を準備しております。欲しいだけおとり願えます」

將僕固懷恩がとりなすと、兵もやや納得したようだった。

「唐の女とやりまくるつもりだったんだがな」

未練は残しながらも回紇と西域の蕃軍は京師に入らず

懷恩に案内されて城南に向かった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

法を乱す

2006-09-07 20:08:25 | Weblog
「もう軍政はぐちゃぐちゃだな」

「宦官野郎がなんでも口を出す」

「皇帝の信用を得ているから始末に負えない」

義成軍姚南仲は節度使とはいえなんの実権もない。

すべて監軍の薛盈珍が勝手にやってしまう。

気に入らない幕僚は勝手に追放したりする。

事ごとに両者が対立し、部下達は困り果てていた。

どちらかというと盈珍が悪い。

ところが

「南仲なんぞ首をはねてやる」と盈珍は誣告状を作成し
京師へ送った。

それと知った部将曹文洽は使者を追い殺した。

そして自らも告発状を残し自殺した。

驚いた皇帝は盈珍を召還した。

南仲も讒言を懼れて入朝してきた。

「盈珍が、お前のじゃまをしたようだの」と皇帝

「いいえ、私のじゃまをしたわけではありません」と南仲

「ほう??」

「陛下の法を乱したのです」

皇帝は黙然としていた。

南仲は罰されることなく右僕射に任ぜられた。

しかし盈珍もまた罰せられることはなかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

慰撫

2006-09-06 19:17:32 | Weblog
令狐楚が河陽に赴任したのは、勇将鳥重胤の後であった。

胤は牙軍を引き連れて滄州へ移っていったが

そのうち三千人は河陽を離れたがらず途中で脱走した。

しかし河陽に戻ると誅殺されると懼れて州境にたむろし
盗賊となろうとしていた。

楚はこの事情をしるやいなやわずかな供回りだけで州境に向かった。

そして脱走兵達の中に入り呼びかけた。

「おまえ達が滄州へ移りたくない事情はよくわかっている」

「河陽を守ろうとする気持ちのあるものは武器を捨てて私についてこい」

脱走兵はお互いに顔を見合わせていた。

家族のいる河陽には帰りたい、しかし処罰されるのも怖い。

「だましておいて、皆殺しなんてことにならないんですかね」と兵達

「私は丸腰でおまえ達の所にきた。そして一緒に河陽へ連れて帰るつもりだ」

「そんな私を信じないで、なにを信用するのだ」

そんな楚の毅然とした態度をみて

「盗賊になりたいわけじゃないしな」と

兵達は武器を捨てて、楚に従って河陽に戻ることを選んだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

築城

2006-09-05 18:23:46 | Weblog
宗皇帝にとって吐蕃は悩みのタネである。

何度も侵略され、盟を結ぼうとすると違約する。

京師が危なかったこともあり、關内地方は荒らし回られている。

数年前鹽州城を造ってからはすこし安心できるようになった。

貞元十三年正月、邠寧節度使楊朝晟が入朝してきた

「方渠・木波など三城を造れば枕を高くしておれるのだが」
と帝が諮問すると。

「じゃあさっそく造りましょう」と朝晟はこともなげに答えた。

「大軍を動員せねばならんのだよ」と帝は驚いて言った。

「邠寧の軍だけで十分ですよ」

「まあ資材のほうはお願いいたしますし、褒美のほうもね」
とあくまで朝晟は軽い。

「鹽州城の時は七万を動員したのだが」

「あれはやり方がまずかったのです」

「七万もの大軍を動員すれば吐蕃の連中にばれてしまいます」

「そうすれば奴らも準備万端で待っています」

「いますぐに邠寧軍だけを動かせば三月もあれば城ばできます」

「吐蕃が大軍を動員するのにはもっとかかります」

「城の周辺は大軍がおれる場所ではないので、数日守れば敵は帰りますよ」

「そううまくいくのか?」帝は半信半疑であった。

二月朝晟は軍を三分して三城を築き始めた。

三月城は完成して守兵を残し撤退した。

四月吐蕃の大軍が来襲したが完成した城を前に茫然とするだけであった。

国境は三百里も遠ざかり、京師は安泰となった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

威権

2006-09-04 20:38:10 | Weblog
「いい加減にしたらどうだ、梅録!」

ぎょっとして回紇の使者梅録は振り向いた。

河東節度使李説の歓迎の宴

唐を支援する回紇の勢威を振り回し、

狼狽した説の説得など無視して

席次を争っていた時だった。

「もしかしてあの声は、景略殿」

酔っぱらった目を見開いて燈火の向こうをみつめると

宴の始まりにはいなかったその姿が・・・

豊州刺史李景略だ。

梅録にとっては唐の官位などは屁でもない

旧知で威権のある景略こそ憚る所である。

「いやいや座興で申しただけでござるよ」

「この席で十分でござる」

そして梅録は座を降り、自ら挨拶に出向いた。

説は憮然とそれを見つめていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

厚遇

2006-09-03 09:21:19 | Weblog
李承嗣は、楊行密との会見の後、すこぶるご機嫌であった。

朱全忠に逐われて朱瑾とともに惨めな敗走を続け

やっとの思いで行密のもとに逃げ込んできたのであった。

騎兵の弱い淮南地方だから匿ってはくれると思っていたが、

その歓迎は予想以上のものだった。

「よくきてくれた、来てくれるのを待ち望んでいたのだぞ」

「最高の邸宅と女を準備してある、ゆっくり休んでくれ」

「瑾殿は俺の次席に、承嗣殿は騎兵の大将だ」

「これで俺の呉国も安泰だ」

待ちかねていたかのように

行密は満面の笑みをたたえ、

盛大な歓迎の宴を開いてくれた。

与えられた邸宅に戻ると、その豪華なことは生まれてから
みたこともないようなものだ。

部下達も厚く賞賜をうけ喜んでいる。

蛮族沙陀の一員として李克用に仕え各地を転戦してきた承嗣であるが

これほどの扱いを受けたことはない

「士は己を知る人のためには死を厭わないという」

「行密殿のために一身を捧げよう」

やがて南下してきた全忠の大軍を、朱瑾と李承嗣は死戦して大破した。

全忠の江南制覇は挫折することとなった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遺表

2006-09-02 08:42:35 | Weblog
「おい、後はどうなるんだ」

「爺さんなにも書き残してないぜ」

「突然苦しみだして死んじまって、でそれどころじゃなかったんだよ」

「こまるな、なにもなしでは兵士が納得しないぞ」

「痛くもない腹をさぐられたらかなわないしな」

「楚に書かしたらどうだ」

「そうだ! 名案だな、すぐ呼べ」

河東節度使鄭儋が急死した。

節度使が突然死ぬと大騒ぎである。

特に現在の幹部にとっては一大事である。

儋の遺言というものがなければ困るのだ。

名文家で知られる令狐楚が寝床からたたき起こされてつれてこられた。

「おい朝廷に送る文と、兵達への告示を適当に書いてくれ」

「もう騒動が起きかけている、明朝の集会に間に合うようにな」

「俺たちの立場を考えて書いてくれよ」

諸将はてんでに勝手なことを言い、楚に迫った。

「まあ、待ってください、文章はすぐ書けるというものではないんですよ」

文盲の軍人達を制して、楚は用具を揃えた。

そして一気に遺表を書き上げた。

明朝、將士の集会で遺表が読み上げられた。

將士は皆感泣し、軍情はたちまちに静まり朝命を待つことになった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

死地

2006-09-01 20:28:53 | Weblog
宰相盧杞にとって、顔眞卿は煙たくてしかたがなかった。

常に正論をとなえて、左遷されても譲ることがない。

他の諸卿は杞を憚るが、眞卿は直言してくる。

杞の父が殺されたとき、埋葬してくれた恩があるので

無碍には排除することもできない。

建中四年諸鎭の反乱はますます勢いを増してきた。

「李希烈をどうしたらよいだろう」

と皇帝から諮問があった。

杞はこれ幸いとばかり答えた。

「希烈は若く、剽悍で功績があり、驕り高ぶっています」

「普通の者にはそれを諫めることなどできません」

「ただ長老で功績の高い重臣が行けばなんとかなるでしょう」

「それは誰だ」と帝

「三代の功臣として名が高い、眞卿様しかおられません」

「そうか。卿に御足労願おうか」

それを聞いて朝廷は騒然とした。

李希烈のもとなどに行けば、良くて虜囚、悪ければ殺されるだけだ。

しかし眞卿は降命を受けると直ちに出発した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする