唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

幽州盧龍軍節度使 その3

2012-02-15 10:59:22 | Weblog
・希彩は節度使となると傲慢暴虐であり、ために大暦7年[772年]部下に殺された。朱と滔兄弟は牙軍の支持
を得てを節度使として擁立させることに成功した。
・幽州盧龍軍は契丹や奚と直接接していて絶えず外寇に備える反面、通商により大きな利益を得ていた。しかも唐朝から遠く
離れているために成徳や魏博と違いその圧力を感じることは少なく、中央への憧れもあり、比較的唐朝に協力的であった。
・は大暦8年[773年]滔に5千の兵を率いさせて州に派遣し吐蕃防禦にあたらせた。
・大暦9年[774年]には自ら入朝し吐蕃防禦にあたった。
・大暦10年[775年]の魏博田承嗣の乱には留後滔は北邊を圧してその南下をゆるさなかった。
・入朝したはそのまま京師に留まり鳳翔節度使を兼任し、幽州では滔が実権を握るようになった。
・建中2年[781年]成徳李惟岳の自立に対して、滔は唐朝に附き平定に努力したが、乱後の恩賞に不満をもち、
建中3年[782年]成徳王武俊や魏博田悦とともに反した。
・滔はに反乱をうながしたがは同じなかった。
・回紇の援助も得た滔の勢力は強く、李懷光や李抱眞らの唐朝軍を破り河北に覇を唱えようとした。
・しかし興元元年[784年]滔の覇権による併呑を警戒した成徳王武俊や魏博田悦は唐朝に帰属し、それを怒った滔は大挙
南下したが、經城で李抱真・王武俊連合軍に大敗して逃げ帰った。
・貞元元年[785年]滔は失意のうちに亡くなり、涿州刺史劉怦が嗣いだがこの年の内に卒し、子の濟が受け継いだ。
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