唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

唐宰相一覧[除皇族]16.李

2014-12-28 08:27:07 | Weblog
李靖。本名藥師。雍州三原人也。
祖崇義,後魏殷州刺史、永康公。
父詮,隋趙郡守。
軍學に通じ、隋長安縣功曹・駕部員外郎。
大業末,馬邑郡丞として高祖の反乱を告げようとして
果たせず捕まる。
斬罪に処せられる時に高祖に認められ、太宗配下となる。
武徳三年王世充征討に従い、開府となる。
また廬江王瑗に従い荊州蕭銑を伐ち、阻まれ高祖に譴責
されるが、許紹に救われる。
四年趙郡王孝恭行軍長史として蕭銑を平定。
上柱國・永康縣公。
そして檢校荊州刺史として嶺南を帰服させる。
嶺南道撫慰大使,檢校桂州總管。
六年江南の輔公祏が反し、元帥孝恭とともに討伐し、
東南道行台兵部尚書となる。
其年檢校揚州大都督府長史。
八年突厥が太原に侵攻し淮南兵を率い防ぐ。
檢校安州大都督。
九年突厥の侵攻を靈州道行軍總管として防ぐ。
太宗が即位し刑部尚書・實封四百戶。
貞觀二年,兼檢校中書令として宰相となる。
三年兵部尚書に転じる。
四年太宗は突厥の冷害による弱体化をみて、和約を破り、
靖を代州道行軍總管として頡利可汗を捕らえ、
隋の子孫も拘束させた。
唐は唐儉を使いとして頡利と講和させ、油断したところ
をに攻撃させるという策で勝利を得た。
功により代國公、しかし太宗は御史大夫溫彥博を唆せ、
靖軍の掠奪を弾劾させに謝罪させてから赦して褒賞
するという姑息な態度をみせた。
そして左光祿大夫を加え、尚書右僕射とした。
靖は宰相となることを喜ばず廷議においては発言しなかった。
八年,畿內道大使として風俗を視察。
ついで足疾を以って致仕を願い出た。
太宗はが宰相を避けていることを知り、特進・每三兩日
至門下中書平章政事として宥めた。
九年吐谷渾が侵攻し、太宗はが出撃することを求めた。
靖も得意の軍務であるため引き受け西海道行軍大總管と
してこれを平定した。
この時も大功を立てながら高甑生の讒言にあい取り調べを
受ける屈辱をうけ、閉門籠居することとなった。
十一年衛國公に転じ世襲濮州刺史。
十八年開府儀同三司に進む。
太宗の高麗平定には随行を申し出たが、老齢のため免ぜられた。
二十三年に79才で卒した。贈司徒、并州都督。
太宗は自らも軍人であるため、大功を立てた將を妬むという
欠点があり、素直に褒賞を与えないことが多かった。
李・李勣・侯君集などはすべてこの被害者である。
子の謇が襲爵、將作少匠に至る。
[宰相履歴]
貞觀2年正月検校中書令~3月關内道行軍大総管~3年2月兵部尚書
~8月定襄道行軍大総管~4年8月右僕射~8年10月三両日一至門下
中書平章政事~11月罷
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 唐宰相一覧[除皇族]15.杜淹 | トップ | 唐宰相一覧[除皇族]17.王珪 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事