三月、宣武軍節度使劉玄佐が死亡した。朝廷は陝虢観察使呉湊を後任として派遣したが、玄佐の子士寧が自立し入ることができなかった。河北・淄青・淮西などにならい宣武も半独立の状態となった。宣武[汴州]は江南からの租庸輸送の中継地点であり、唐はその回収に苦慮することになる。また山東節度使曹王皐もなくなり軍乱が起きたが、こちらは鎮圧することができた。中央政界では宰相竇参が失脚し、その党が一掃され、陸贄が実権を握ることになった。
最新の画像[もっと見る]
- 河中節度使史 その1 4年前
- 嶺南節度使史 その2 4年前
- 山南東道節度使史8 4年前
- 河陽節度使史4 4年前
- 淄青平盧軍節度使史5 4年前
- 元和十五年 西暦 820 和暦 弘仁十一年 5年前
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます