唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

劍南東川節度使 その3

2012-06-19 09:51:43 | Weblog
・その後はまた平穏に戻り中級文官の赴任地となった。
・咸通10年[869年]定邊軍設置の失策より南詔は再び成都に来寇し西川諸州を陥した。
東川獨狐霖もまた対処できず、神策軍より顔慶復が派遣されて講和させた。
・廣明元年[880年]黄巣の侵攻に備えて、西川に陳敬瑄・東川に楊師立という宦官田令孜の配下が任ぜられた。
・師立は対黄巣戦に協力したが、敬瑄ばかりが優遇されることに憤慨し、
中和4年[884年]3月反した。しかし西川将高仁厚が侵攻すると6月には誅せられた。
・東川は高仁厚に与えられたが、光啓2年[886年]敬瑄はこれを疑って攻撃して殺した。
・神策顧彥朗が東川に入り、敬瑄を攻撃する王建とは友好関係にあったが大順元年卒した。
弟彦暉は建とは緊張関係に有り大順2年[891年]西川を制圧した建は東川併呑を図った。
・乾寧元年[894年]より連年建による侵攻が始まり、乾寧4年[897年]東川諸州は王建の支配下になった。
・以降「前蜀」に移行するまで王建配下の諸将が留後・節度使をつとめた。
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