唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

魏博節度使 その5

2011-12-28 09:59:04 | Weblog
・元和15年[820年]憲宗皇帝が宦官に殺された後、子の穆宗皇帝は無能であり、登用した宰相達も
いずれも無能であった。しかし憲宗皇帝の威光が残り、長慶元年[821年]4月には幽州劉總も帰国し
全土が唐朝の支配下に戻った。
・ところが7月その幽州で軍乱が起き節度使張弘靖は捕らえられ、成徳軍でも軍乱により田弘正が
殺害された。
・唐朝は魏博節度使李愬が重病であるため。弘正の子原節度使布を急遽魏博節度使に赴任させ
成徳軍を討伐させようとした。
・しかしあいつぐ賞賜により驕兵となった魏博では、若年の田布では統率が困難であり、
長慶二年[822年]討伐軍が途中で自潰してしまう事態がおこり、布は恥じて自殺した。
・実力者である史憲誠は一応軍を統率し、成徳・幽州の反乱軍とも通じるとともに、
唐朝からも節度使に任ぜられるという立場をとった。
・魏博では長く支配した田氏の退陣とともに牙軍の勢力は増大し、節度使はその代表でしかないという
色彩が強くなっていった。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 魏博節度使 その4 | トップ | 魏博節度使 その6 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事