・興元元年[784年]幽州朱滔・魏博田悦と反乱していた王武俊は悦と共に帰国し
成徳恒冀深趙四州を与えられた。
・さらに滔を經城に大破した功績により徳棣二州をも加増され、貞元元年[785年]
子の士眞が徳棣観察使?[都団練守捉使]となった。一応は分領であるが六州とも武俊の支配下にあった。
・貞元17年[801年]武俊が卒すると、士眞が成徳を嗣ぎ名目上も一体化した。
・元和4年[809年]士眞が卒すると、憲宗皇帝は士眞の子承宗の継承を容易に認めよ
うとはしなかった。しかし淮西を主敵とするため、妥協策として徳棣二州を保信軍節
度使とし、9月一族の州刺史薛昌朝[嵩の子,王氏之婿]に与えることで収めようとした。
・ところが魏博田季安に唆された承宗は昌朝を捉えて反旗を翻した。
・憲宗皇帝は怒り、10月成徳討伐の軍を起こしたが成功しなかった。
・征討軍の敗戦続きと、淮西征討が進展しないため、元和5年[810年]7月徳棣二州を承宗
に与え保信軍節度使は廃止されることになった。
成徳恒冀深趙四州を与えられた。
・さらに滔を經城に大破した功績により徳棣二州をも加増され、貞元元年[785年]
子の士眞が徳棣観察使?[都団練守捉使]となった。一応は分領であるが六州とも武俊の支配下にあった。
・貞元17年[801年]武俊が卒すると、士眞が成徳を嗣ぎ名目上も一体化した。
・元和4年[809年]士眞が卒すると、憲宗皇帝は士眞の子承宗の継承を容易に認めよ
うとはしなかった。しかし淮西を主敵とするため、妥協策として徳棣二州を保信軍節
度使とし、9月一族の州刺史薛昌朝[嵩の子,王氏之婿]に与えることで収めようとした。
・ところが魏博田季安に唆された承宗は昌朝を捉えて反旗を翻した。
・憲宗皇帝は怒り、10月成徳討伐の軍を起こしたが成功しなかった。
・征討軍の敗戦続きと、淮西征討が進展しないため、元和5年[810年]7月徳棣二州を承宗
に与え保信軍節度使は廃止されることになった。
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