唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

大中十三年 西暦 859 

2020-02-28 10:06:57 | Weblog
三月河東節度の雲蔚朔三州を分割し、雲州に大同軍を置いた。
 北邊防禦対策である。雲蔚朔三州は蕃族が多数派であった。

四月武寧軍がまた節度使康季榮を逐った。
 武寧牙軍は札付き不良軍であり、気に入らないとすぐ騒動を起こした。
 左金吾大將軍田牟を再任させ安撫した。牟は將士のご機嫌取りがうまかった。

宣宗は当時としては老齢であり、当然皇太子を立てるべきであり、宰相も要請
していた。しかし長男の鄆王[後の懿宗]の無能ぶりが気に入らず、三男の蘷
王を立てたかったが、長男を排除する理由や、宦官への遠慮[宣宗も正統では
ないのに宦官に擁立してもらった]もあり決めることができなかった。

八月癸巳,宣宗皇帝崩御,年五十。
宣宗は重病となり朝見ができなくなった。

宦官にも派閥があり、宣宗皇帝の意向を尊重する樞密使王歸長と馬公儒、
右軍中尉王茂玄は蘷王を擁立するように動いた。そこで反対派の左軍中尉
王宗實を淮南監軍に転出させようとした。ところが宗實は宣宗が既に崩御
していることを知り、実力を持って鄆王を擁立した。

宣宗は日夜努力して帝国の再建に励んだが、腐敗した体制を動かすことは
できなかった。その死により実質的に唐帝国は衰亡期に入った。しかし巨大
な帝国であるので、崩壊が表面に出るのに20年、完全な滅亡までは50年かか
った。
唐末の賊中にいた知識人は「宣宗没後、国に政治なし」と嘆じた。
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