唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

安史の乱始末 その2

2017-12-30 17:18:28 | Weblog
親唐派の三鎭[汴州.滑州.相州]
残党6鎭のうち、夷狄の李懷仙・張忠志、一応漢族の田承嗣は生粋の安禄山・史思明の麾下の将出身である。しかし薛嵩・張獻誠・令狐彰は唐朝の臣下が幽州節度府に属していたために安史派になったわけで、親唐傾向が強かった。そのため比較的早期に唐朝に帰服していった。

張獻誠
名将幽州節度使張守珪の子。幽州節度府に勤務し、旧主の子として安禄山に優遇される。南方からの漕運の拠点である汴州を守り、史朝義敗績の後はいち早く帰順した。もともと唐朝に叛意はなく、すぐ重要な汴州を明け渡し山南西道節度使として蛮族の防御にあたった。このため唐朝は淮南よりの貢納を円滑に受け取ることができるようになった。従弟獻恭も山西節度使、子煦も夏綏・振武節度使となった。

令狐彰
父濞は文官として幽州で勤務、彰は武官となるが書も読める。安禄山時張通儒配下で京師に勤務、史思明時に滑州刺史となるが帰順する。史朝義敗績時、滑州刺史滑毫魏博等六州節度となり管区の復興に努め、納税や防秋の貢献も怠らない。病となるや、子への継承を拒否し、唐朝高官からの後継を求めて工部尚書李勉がついだ。これにより東都・汴州の安全が確保された。子の建や通は才はなかったが優遇された。

薛嵩
高宗時の名将薛仁貴訥の孫.幽州節度使楚玉の子という名門出身、生粋の軍人で学は無い、安禄山配下で活躍し相州を守る。史朝義の敗績後懷恩に帰順し相州刺史.充相衛洺邢等州節度觀察使に任ぜられる。管内の統治には励んだ。必ずしも唐朝に従順ではないが自立傾向は強くなかった。大暦8年正月に卒すると、子平[12歳]は継承を拒んで入朝[後に諸鎭節度使を歴任]し、弟崿が継承。しかし魏博田承嗣の画策により鎭は分裂し相衛二州は奪われ、邢洺二州のみが李抱玉の昭義軍節度に属するようになった。
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