唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

安南節度使 静海軍節度使その4

2012-02-12 09:33:19 | Weblog
・會昌3年[843年]都護武渾が軍士を築城に使役しすぎて反乱が起こり逐われた。
・大中年間[847年-]末期より南詔の嶺南・安南侵攻が盛んとなった。
大中12年[858年]王式は築城・軍備再編に努めたが、
咸通元年[860年]後任の李鄠はむやみに播州に進攻し、反ってその空きに土蠻
(鄠が蠻酋杜守澄を殺したため)と南詔連合軍兵三萬に都護府を落とされた。
・咸通2年[861年]鄠は土軍を集めて都護府を回復したが左遷され、王が赴任した。
・咸通3年[862年]は南詔の進攻を懼れて交替を求め、湖南観察使蔡襲が諸道兵
三万を率いて赴任した。しかし嶺西節度使蔡京は功を争い、経費節減を言い立てて兵
を減らさせた。年末南詔は五万の兵力で都護府を襲った。
・咸通4年[863年]正月都護府は陥落し襲は力戦はしたが敗死した。
・6月唐朝は諸軍を撤退させ、安南都護府を廃止し、行交州を置いた。
・天雄高駢が禁軍五千を率いて征討を命ぜられ着任したが、
監軍(宦官)李維周と合わず讒言されることになった。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 安南節度使 静海軍節度使その3 | トップ | 安南節度使 静海軍節度使その5 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事