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72章解説【3】

2013年09月19日 | ジュズ・タバーラカ解説
14.『またわれらは、われらの中には帰依者たちもいれば、不正な者たちもいる。そして、帰依した者、それらの者は正導(しょうどう)を追い求めたのである』。
15.『他方で、不正な者たちについては、彼らは火獄の薪であった』。
16.「彼ら(マッカの不信仰者たち)が(イスラームの)路に真っすぐ立つなら、われらは豊かな水を彼らに飲ませ与えよう」。
17.「われらがそれにおいて彼らを試すために。それで己の主の想念・唱名から背を向ける者があれば、彼(アッラー)は彼(その者)を辛い懲罰に入れ給うであろう」。
18.「そして諸モスクはアッラーのものである。それゆえ、(そこでは)アッラーに並べて何ものにも祈ってはならない」。
19.「そしてアッラーのしもべ(預言者ムハンマド)が立って彼(アッラー)に祈ると、彼らは彼(預言者ムハンマド)の上にもつれた毛とならんばかりであった」と(啓示された)。
20.言え、「私はわが主のみに祈り、彼に何ものも並び置かない」。
21.言え、「私はおまえたちに対し害(の力)も正導(の力)も有さない」。
22.言え、「私をアッラーから守ることは誰にもできない。また、私は彼を差し置いて避難所を見出すことはできない」。

 信仰においてジンは二種に分かれます:
 「またわれらは、われらの中には帰依者たちもいれば、不正な者たちもいる。そして、帰依した者、それらの者は正導(しょうどう)を追い求めたのである。他方で、不正な者たちについては、彼らは火獄の薪であった。」

 ジンは人間のように、アッラーに帰依して彼の導きの上を歩む、「正導(しょうどう)を追い求めた」帰依者たちがいます。つまり、彼らは真実の道を努力して探し求めたということです。以上は、私たちによるイスラームの選択が観察・熟考・瞑想の結果であるべきであることへと私たちを導いてくれます。なぜなら落ち着きがあり、かつ信頼でき、わずかなことで揺れずまたあらゆる疑いで崩壊しない堅甲な柱に基づくイスラームとして存在するためです。代わって:「不正な者たち」導きと正しさの道に反したために火獄の火力を増加させるための燃料になる者たちです。

 またクルアーンは、人々が導きの道を志したならば、アッラーは必ず彼らに恩恵を下し給うことを解明します:
 「彼ら(マッカの不信仰者たち)が(イスラームの)路に真っすぐ立つなら、われらは豊かな水を彼らに飲ませ与えよう。われらがそれにおいて彼らを試すために。それで己の主の想念・唱名から背を向ける者があれば、彼(アッラー)は彼(その者)を辛い懲罰に入れ給うであろう。」

 もし彼らが真実と善の道、真っすぐな道、つまりイスラームを歩めば、という意味です。「われらは豊かな水を彼らに飲ませ与えよう」彼らに豊富に水を与えよう、という意味です。つまり彼らの糧は増やされ、恩恵も豊かさが増されるということです。「われらがそれにおいて彼らを試すために」それによってわれが彼らを試すため、ということです。

 続いてクルアーンは、各共同体が留意すべき二つの真実を解明します:

 第一:幸せな生活、豊かな生活は、アッラーを畏れたことと彼に服従することにおいての行動の結果の一つとして現れたものであるということ。

 第二:アッラーの導きの上を歩むしもべたちにアッラーが恵み給う安楽は、彼らに与えられた試練であるということ。次のようにアッラーが仰せになっているとおりです:「われらがそれにおいて彼らを試すために」恩恵による試練は、罪に陥らないようにとの常なる自覚を激しく必要とします。お金という恩恵と豊かな財産は、多くの場合、恩恵からの疎外とアッラーの罰の実現を招く自惚れや足りない感謝、主を忘れる、己の教えに背くことに導きます。以上の意味は次のアッラーの御言葉です:「それで己の主の想念・唱名から背を向ける者があれば、彼(アッラー)は彼(その者)を辛い懲罰に入れ給うであろう」己の主の想念・唱名は、己の主に仕えることや、クルアーンや、己の主の訓戒を指します。「辛い懲罰に」安楽のない厳しい罰です。

 アッラーはその使徒に彼御ひとりへの崇拝、彼に同位者を置かないことへと導きます:
 「そして諸モスクはアッラーのものである。それゆえ、(そこでは)アッラーに並べて何ものにも祈ってはならない」マサージド=諸モスクとは、サジダ=跪拝が行われる場所を指します。つまり、サジダという言葉が派生してできた場所の名前ですから、礼拝や崇拝行為のために建てられた場所ということになります。そのためモスクはアッラーの家と呼ばれます。

 かつてユダヤ教徒とキリスト教徒は自分たちの教会やシナゴーグに入ると、アッラーに同位者を配置していました。そこでアッラーはその使徒と信徒たちにアッラーは御ひとりであると崇め、真心込めて彼に祈るよう命じました。

 続いてクルアーンは、ジンまたは不信仰者たちによる預言者(祝福と平安あれ)に対する態度を解明します:

 「そしてアッラーのしもべ(預言者ムハンマド)が立って彼(アッラー)に祈ると、彼らは彼(預言者ムハンマド)の上にもつれた毛とならんばかりであった」と(啓示された)」

 至高なるアッラーは仰せになっています:「そしてアッラーのしもべ(預言者ムハンマド)が立って彼(アッラー)に祈ると」つまりムハンマド(祝福と平安あれ)が彼の主を崇めるために立ち上がると、「ならんばかりであった」~しそうであった。「彼らは彼(預言者ムハンマド)の上にもつれた毛と」つまり彼らは固まって、またはそれぞれがその上に乗って、という意味になります。「ならんばかりであった」に含まれる主語は、礼拝の中でクルアーンを読んでいた預言者のもとに仲間同士で込み合って彼の読誦を驚きながら聴いたことから、ジンに帰るともいえます。

 また、「ならんばかりであった」の主語がクライシュの不信仰者に帰るとも言えます。すると意味は次のようになります:アッラーより使信を授かったムハンマドがアッラーを崇めているところに大勢の集団が彼を取り囲んでアッラーの光を消そうともくろんで彼の宣教が広まることなく、また誰の益にもならないように専念した、という意味になります。

 以上を前にして、アッラーはその使徒(祝福と平安あれ)に多神教徒たちに次のように話すよう命じ給います:

 「言え、「私はわが主のみに祈り、彼に何ものも並び置かない」。言え、「私はおまえたちに対し害(の力)も正導(の力)も有さない」。」
 つまり:ムハンマドよ、彼らに次のように言ってやれ:“私は主を崇め、祈る際には彼に何ものをも並び置かない”。そして次のようにも彼らに言ってやれ:“私はおまえたちから害を払拭することも、おまえたちに善を到達させることも出来ない。私はおまえたちを導くことにおいても迷わせることにおいても何の力も持っていないのである”。

 これこそが、複雑さや困惑さのないはっきりとしたイスラームの呼びかけです。それはアッラー御ひとりのみに向けられた崇拝の上に立っています。またアッラー御ひとりのみに属する事柄であるのに、自分らの預言者をアッラーと同位に見なしたり、善悪を関連付けたりといったことしていた諸宗教の追従者たちの多くを支配していた間違った理解を正します。

 続いてクルアーンは以上の意味を強調し、アッラーは預言者(祝福と平安あれ)に呼びかけ給います:
 「言え、「私をアッラーから守ることは誰にもできない。また、私は彼を差し置いて避難所を見出すことはできない」。」

 つまり:ムハンマドよ、“私がアッラーに背けば、私を勝たせたり私を守ったりすることは誰にも出来ないし、彼以外に非難できる場所を私は見つけられない”、と言ってやれ。

参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ タバーラカ/アフィーフ・アブドゥ=アル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP99~102)
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