アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

睡眠の間に神に出会う-2

2024-08-17 03:46:46 | 覚醒のアーキテクチャー

◎人は眠りを通して神に入っていくがそれだけでは決して神を知るには至らない

 

次の文は、OSHOバグワンの『眠りのなかで目覚めていること』だが、字義どおり読むと誤解を招く。あたかも読者が神人合一という体験とは言えない体験を承知しているのを前提に語っているようである。

 ヨーガ行者(ヨーギ)全員が、ニルヴァーナを徹底して知っていれば、ヨーガ行者は、睡眠中に夢を見ないが、まるでヨーガ行者全員がニルヴァーナを知っているような書きぶりである。ヨーガ行者だからといって、覚醒しているのはひと握りにすぎない。

アメリカの覚者ケン・ウィルバーだって、最初の覚醒から、熟眠中に夢を見ないようになるまでは時間がかかったものだ。

 普通の人は、一晩に10分以下の夢を見ない時間があってそれが神の時間。これは、いわゆる隙間であって、肉体死のプロセスにおいて万人が必ず目撃する原初の光(母の光明)と同等のもの。

 OSHOバグワンは、以下の文において、人は冥想をしない限り、何百万回の人生において何億回睡眠しても、睡眠中の夢を見ない状態が、神であると意識することはないと釘を刺しているのだ。

たとえ毎晩の何億回の睡眠にさいし、何億回神と出会ったとしても、それは無意識で起きているから、それが神であると気づくことは決してない。冥想により、意識的に神と出会う訓練を積むことにより、無意識である睡眠において夢をみない空白(gap)が神であると気づくこともあるかもしれない。

 だが、それは、古代インドでインドラが苦労したように簡単なものではない。

 世間では、熟睡は、心身をリフレッシュするというが、それ以上のものがあるのだ。

 

『眠りのなかで目覚めていること

 

眠りに入ってゆくことと神に入ってゆくことは、まさにひとつの同じことだ。ただ唯一の違いは、眠りをとおして、人は無意識のうちに神に入ってゆくのに対して、瞑想をとおして、人は意識ある状態のまま神に入ってゆくということだ。ただし、これは非常に大きな違いだ。あなたは何千もの生にわたって、眠りをとおして神に入ってゆくかもしれない。しかしけっして神を知るにはいたらない。ただし、かりに一瞬でもあなたが瞑想に入っていったなら、何千もの何百万もの生にわたって、深い眠りのうちに――つねに無意識のうちにではあったが――たどり着いていたところに、その同じところにあなたはたどり着く。そしてそれが、あなたの生を全面的に変容させる。

 

興味深いことには、ひとたび瞑想に入ってゆくと、―――深い眠りがつれてゆく虚空のうちに入ってゆくと、人は二度と無意識でいることがなくなるのだ。―――たとえ睡眠中であっても。クリシュナがギータのなかで、「ほかの誰もが眠っているときでも、ヨーガ行者は目覚めている」といったのは、ヨーギが全然眠らないという意味でいったのではない。それどころか、ヨーギほど美しく眠る者はいないくらいだ。ただ、もっとも深い眠りのうちにあってなお、ヨーギのなかの瞑想に入っていった部分は目覚めたままでいる。毎夜、ヨーギはこの覚醒状態のうちに眠りに入ってゆく。そのときヨーギにとって、瞑想と睡眠はひとつの同じものだ。両者のあいだに違いはない。そしてヨーギはつねに完全な意識のうちに眠りに入ってゆく。ひとたび瞑想をとおして自己の内側に入っていった者は、けっして眠りのなかで無意識になることはない。』

(死・終わりなき生/オショー・ラジニーシ/講談社166-167から引用)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 睡眠の間に神に出会う-1 | トップ | 666の獣とは »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

覚醒のアーキテクチャー」カテゴリの最新記事