◎真剣に求め欲するうちに、忽然と門が開いた
ヤコブ・ベーメは、貧しい農家の出身で、正規の教育を受ける機会はほとんどなかった靴職人。25歳の時に、金属製の皿を凝視していた際に、無底と言われる世界の根源を知る神秘的な体験をした。
ダンテス・ダイジは、これを無底の底と呼び、水平の悟りと見ている。
以下は、ヤコブ・ベーメのその神秘体験の21年後の書簡から。書いている内容を素直に読めば、見神なのか、無底の底(神人合一)のかはわからない。文の前半が悟り直前の状況。“あらゆる存在の本質を、その根拠と底なし”が無底の底と思われる。
『私は、ただただイエス・キリストの心臓だけを求めつづけた。そこに身を隠し、神の残酷な怒りから、また悪魔 の攻撃から逃れようとしたのである。また、神が聖霊と恵みを私に与えてくれるように切に願った。神が私を神 のなかで祝福し導くように、神に背いた行為を私からぬぐい去り、神に一切を委ね、私の意志に従ってではなく 神の意志に従って生き、神のみが私を導くように、私が神の子イエス・キリストにあって神の幼児とされるように、切に切に神に請い願ったのである。
こうして「真剣に求め欲するうちに、忽然と門が開いた」。一五分の忘我状態のあいだに、ベーメの霊の目は開か れ、全てを見る恵みにあずかったのである。「この光のなかで、私の霊は一切を見、万物に〔・・・・・・〕神を認め、神とは何者であり、神はいかに存在し、神の意志が何であるかを悟り」、「あらゆる存在の本質を、その根拠と底なしを、さ らには神の聖なる三性の誕生、森羅万象の由来とそのはじまりの姿を、神の智恵を通して見、認識したのである」とベーメは語っている。
もはや、かつて彼を苦しめた憂鬱と悲嘆は、あとかたもなく消え失せたのであった。ベーメは、 もはや神の怒りを恐れる必要はなくなった。今や、神の愛と光に、彼の全存在は包まれたからである。再生は、現世の苦のただなかで、実現したのであった。 』
(ヤコブ・ベーメと神智学の展開 岡部雄三/著 岩波書店P38-39から引用)
ダンテス・ダイジの無底の底。
『禅には、上昇という概念はない。
禅は、あくまでも無底の底への落下である。
ヨーガには、脱落という概念はない。
クンダリニー・ヨーガは、あくまで根源への上昇である。』
(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジ/森北出版P145から引用)








