外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

福沢諭吉のみごとな論理とレトリック 4/5

2018年11月10日 | 言葉について:英語から国語へ

福沢諭吉のみごとな論理とレトリック 4/5

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文明論の概略見開き前回3/5回、論点7は、論理の問題を解決するにはどうしたらいいかという対策編でした。それは「交際」という一言に収斂されます。引きこもって読書をしているだけではだめで、肝胆相照らすもよし、喧嘩するもよし、「唯人と人と相接して其心に思ふ所を言行に発露する」ことによってはじめて議論を不毛な言い合いから救うことができるというのが福沢さんの考えです。必要条件という論理上の、一般的、静的だった課題を7回めで動的に解決する姿勢が示されたのです。

今回4/5、再び、議論を低迷させる原因の話に戻ります。ここで扱うのは、必要条件、十分条件のような論理学で整理できる問題ではなく、もっとやっかいな点ですが、より本質的な問題でもあります。それゆえ福沢も最期に持ってきたのでしょう。ページ数も費やしていますが、全体を貫く論点は単純。

それは、「浅薄な意見と深く考えられた意見」です。論点1から論点6までと同様、A、B、Cに分けてみてみましょう。

A: 理論的主張、B: 実際への適用、C:  比喩や例示

論点8:

A:浅い考えを持つ者は深く考えられた意見を毛嫌いする。

B:同じ開国説を唱える人の間でも、浅い考えを持つ人は深く考えられた意見に耳をふさぎ、反駁する。

C:胃弱の人が滋養のあるものを受け付けず、病状がさらに悪化するのと同じだ。

福沢諭吉ポーズ福沢は、病状の悪化が進む前に、いかなることがあっても栄養を与えるよう「学者」は努めるべきだという考えです。

このへんになると、論点1から6までで見たように、明快な必要条件を論じるというわけにはいきません。どこまでが浅い意見でどこからが深い意見かの区別は、簡単明瞭に分かたれるものではありません。ましてや、これをもって相手を説得することも困難です。かくして、最期にこの論点を持ってきたわけでしょう。

つぎは、「浅薄な意見と深く考えられた意見」という大枠のなかで、問題をさらに深めます。言い換えると、いままで、論点1から論点6までは論点が「並列」されていましたが、ここでは、今挙げた「浅薄な意見」と「深く考えられた意見」は、具体的にはどういうものか、という問題に踏み込みます。結論は以下のとおりです。

浅い意見とは、 = 「世論」。いわゆる世間通常の人物の通常の意見。

深い意見とは、 = 「理論」。ひいては単純な利害ではなく、「軽重の議論」、いわば価値判断の議論につながる。

最期に、学者の態度はいかにあるべきかを述べますが、それは次回、5/5にまとめておきましょう。

浅い意見:

ここでは、福沢が世論の愚について字数を費やして指摘している点に注意を促したいです。卓越した意見が迫害を被るということは誰でも論じるでしょうが、たいてい、「賢人 versus 愚かもの」、または、「進歩 versus 旧牢墨守」という対立項で論じられるでしょう。福沢の場合、害をもたらすのは、愚か者でも旧弊な人でもありません。「所謂世間通常の人物」が曲者です。そういう人は天下を議論すると称して、自分の見方の枠になんでも押し込め、はみ出るものは異端として排除しようとします。それによって、智者の足が引っ張られるというのが福沢の見立てです。民主主義の世の中ではさらに重篤な病弊となった現象にすでに気が付いていたと言えませんか。

深く考えられた意見:

一方、深く考えられた意見というのは、福沢の表現では、まず、「高遠な意見」と呼ばれます。「世間通常な人間」が理解できず、反撥する対象です。たぶん、これは「理論」と呼ぶべきものでしょう。しかし、それは学問のための学問というものではなく、目先に捉われずに全体の現実を理解するために必要なものです。福沢の念頭にあったのは、ガリレオやアダム・スミスのようです。言い換えると、「長期的展望を持った意見」と言うこともできます。この章の終わり近くでは、「それは『軽重の議論』であるはずだ」と述べますが、その意味するところは、「価値の議論」と考えられます。いずれにせよ、何が高遠で何が近浅か、何が長期で、何が短期か、何か重く、何が軽いか。論理学的な尺度や基準などありません。最後の5/5で、「価値の議論」まで議論を進めます。

ここでは、まず、「世論」について、A、B、Cの3点を見ておきましょう。

論点9:

A:世論、つまり、通常の人物の狭量な意見が智者の活動を妨害する。

B:その結果、今ではだれでも受け入れていることでも、当初、疎外され進歩が遅れることがある。

C1:西洋では、アダム・スミス、ガリレオの意見が当初受け入れられなかった例がある。

C2:日本では、10年ほど前まで、今では当たり前の廃藩置県など「妄言」として受け入れられなかった。

 

 では、テキストにあたってみましょう。今回は、意味のまとまりごとに小見出しをつけました。岩波文庫p.22

■浅薄な意見と深く考えられた意見

すべて事物の議論は人々の意見を述べたるものなればもとより一様なるべからず。意見高遠なれば議論もまた高遠なり、意見近浅なれば議論もまた近浅なり。また近浅なるものは、未だ議論の本位に達すること能(あた)はずして早く既に他の説を駁(はく)せんと欲し、これがため両説の方向を異にする開国ことあり。たとへば今外国交際の利害を論ずるに、甲も開国の説なり、乙も開国の説にて、遽(にわか)にこれを見れば甲乙の説符合するに似たれども、その甲なる者漸くその論説を詳(つまびらか)にして頗(すこぶ)る高遠の場合に至るに従ひ、その説漸く乙の耳に逆ふて遂に双方の不和を生ずることあるが如き、これなり。蓋(けだ)しこの乙なる者はいわゆる世間通常の人物にして通常の世論を唱へ、その意見の及ぶ所近浅なるが故に、未だ議論の本位を明にすること能はず、遽(にわか)に高尚なる言を聞てかへってその方向を失ふものなり。世間にその例少なからず。なお、かの胃弱家が滋養物を喰ひ、これを消化すること能はずしてかへって病を増すが如し。この趣を一見すれば、あるいは高遠なる議論は世のために有害無益なるに似たれども、決して然らず。高遠の議論あらざれば後進の輩(やから)をして高遠の域に至らしむべき路なし。胃弱を恐れて滋養を廃しなば患者は遂に斃(たふ)るべきなり。この心得違よりして古今世界に悲むべき一事を生ぜり。

■「世論」とはどういうものか

牛鍋何れの国にても何れの時代にても、一世の人民を視るに、至愚なる者もはなはだ少なく至智なる者もはなはだ稀(まれ)なり。唯(ただ)世に多き者は、智愚の中間に居て世間と相移り罪もなく功もなく互に相雷同して一生を終る者なり。この輩(やから)を世間通常の人物といふ。いわゆる世論はこの輩の間に生ずる議論にて、正に当世の有様を摸出(もしゆつ)し、前代を顧(かへりみ)て退くこともなく、後世に向て先見もなく、あたかも一処に止て動かざるが如きものなり。

■世論に左右される害

然(しか)るに今世間にこの輩の多くしてその衆口の喧(かしま)しきがためにとて、その所見を以て天下の議論を画し、僅(わずか)にこの画線の上に出るものあれば則ちこれを異端妄説と称し、強ひて画線の内に引入れて天下の議論を一直線の如くならしめんとする者あるは、果して何の心ぞや。もしかくの如くならしめなば、かの智者なるものは国のために何等の用を為すべきや。後来を先見して文明の端を開かんとするには果して何人に依頼すべきや。思はざるの甚(はなはだ)しきものなり。

■世論、通説が進歩を阻害する例:西洋

ガリレオ裁判試に見よ、古来文明の進歩、その初は皆いわゆる異端妄説に起らざるものなし。「アダム・スミス」が始て経済の論を説きしときは世人皆これを妄説として駁(はく)したるに非ずや。「ガリレヲ」が地動の論を唱へしときは異端と称して罪せられたるに非ずや。異説争論年又年を重ね、世間通常の群民はあたかも智者の鞭撻(べんたつ)を受て知らず識らずその範囲に入り、今日の文明に至ては学校の童子といえども経済地動の論を怪む者なし。ただにこれを怪まざるのみならず、この議論の定則を疑ふものあればかへってこれを愚人として世間に歯(よは)ひせしめざるの勢に及べり。

■世論、通説が進歩を阻害する例:日本

廃藩置県又近く一例を挙ていへば、今を去ること僅(わずか)に十年、三百の諸侯各一政府を設け、君臣上下の分を明にして殺生与奪の権を執り、その堅固なることこれを万歳に伝ふべきが如くなりしもの、瞬間に瓦解して今の有様に変じ、今日と為りては世間にこれを怪む者なしといえども、もし十年前に当(あたり)て諸藩士の内に廃藩置県等の説を唱る者あらば、その藩中にてこれを何とかいはん。立どころにその身を危ふすること論をまたざるなり。故に昔年の異端妄説は今世の通論なり、昨日の奇説は今日の常談なり。

5/5につづく

 


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