前回と異なり、ちょっと重い課題、かもしれません...。
しかし、英語の先生のみならず、教育、研究に携わる方へ向けて、二言、三言。
下の長い絵は、『福沢先生ウェーランド講術の図』 安田靫彦画
上野の戦いの砲声を耳にしながら、英書の経済学の講義を続ける福沢諭吉です。記事は、ずっと下の方にあります。
テーマは、教育と労働との違いです。が、単純に道徳的なことではありません。道徳だと、それ以上論じることができない、ということになります。例えば、 「汝、殺すなかれ」に、「~だから」という理由付けをすることには、ためらわれますね。もっとも、「汝、姦淫するなかれ」ぐらいだと、ちょっと意見が分か れるところです...。
おっと、話を戻しましょう。先日、亡くなった小野田寛郎さんが、自然塾を始めるにあたって、カナダの自然保護について取材に行った際、向こうの人に、「環 境は子孫からの預かりものだ」と聞かされ、「環境は子孫のために残さなければならない」という考えを当然だと思っていた小野田さんは、自らの傲慢さを恥じ た、ということでした。
世の中は<交換>によって循環し、成り立っていることは、自由主義経済の原理と同様、認めましょう。しかし、交換は一対一の関係のものに限られるでしょうか。「当たり前ではないか」という声も聞こえてきます。
しかし、先入観にとらわれずに、世の中を見渡してみると、必ずしもそうではないことが分かります。一対一の交換が合理的ではない局面も案外あるものです。
親は子供を養育したからといって、子供から代金を取るでしょうか。取らないのは当たり前だと誰もが認めるでしょう(西洋の中世の職人文化においては、それ らしきものが認められますが)。
では、「養育」とは、「無償の行為」でしょうか。主観的にはそう思われる方もいるでしょうが、長い目で見ると、そうではな いようです。養育、教育は、親のそのまた親から与えられたものを、自分の子供に与える行為と言えます。一対一の交換ではなく、或る人か ら与えられたものを、その人ではなく、後の世代の別の人に与えるという行為です。小野田さんが経験した、カナダの原住民の社会では、その交換原理が意識され、掟として存在しているのです。
下の二つの矢印で、違いを表せます。
商取引における「交換」 : ←→
養育、教育における「交換」:→→→ ....
教育を産業にすることに人々がなんとなくためらいを感じるのは、こういう原理的違いをうっすらと感じているからでしょう。教育活動で、受け手に代償を求めるというのには根本的に無理があるのです。
しかし、世の中の大きな部分は貨幣経済で動いているので、現代社会で暮らしている私たちには、両方の原理をどう調整するかが、課題になります。「どこまで お金で済ませるのか」、「どこがお金で動いていけない点か」、という判断は、教育職、研究職につく人にとって、とても重要なことです。若いうちには、なか なかこの判断ができないというのも無理のないことです。
特に、私がこのことを言いたいのは、需要の多い、いわゆる教育産業と称される分野で働いている若い人(年配者には絶望しています)に対して、です。上のことをお読みになって、反発するか、あるいは、ある目的を見出すきっかけとされるか、私には分かりません。
前回とうって変わって、重い話題になりました。じつは、もっと理論的に深く、教育活動と経済について論じる必要があります。また、あえて今回抽象的に言い ました。具体的な生々しい事柄もあります。しかし、ここは、外国語と母国語の学習、教育に話を限ることにしていますので、この辺で打ち止めにしましょ う。
次回は、日本語についてです。
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