ウォーキングの途中

2013年01月13日 | 暮らし

私は今日仕事がオフだった。
先週の勤務が少し過酷だったせいか、午前中まで寝てしまった。
私としては今日やらなくてはいけないことがあるのに、午前中何もしないで終わってしまった。
午後も全国都道府県対抗女子駅伝を観てしまい、気がつくと3時過ぎていた。
今日はどうしてもウォーキングをしたいと考えていた。
今日は、昨日までよりも暖かかった。
ウォーキングを始めて林を抜け出たあたりでおじいちゃんに会った。
もう何年か前からウォーキングのときに会うとお互いに会釈してきた。
女房はおじいちゃんのプライベートなことをいろいろ知っていた。
しばらく新幹線と一緒に歩いた。
道路脇には雪が積もっていた。
中軽の冬の別荘街には、やはり圧倒的に、住人がいない。

 

ヤマダ電機に寄る。
これは最近の私のウォーキングには、かかせないコースです。
私は、ミラーレスの一眼レフの展示されているところに行った。
私には現在欲しいと思っているカメラがある。
しかしそれがヤマダ電機軽井沢店には展示していない。
1ランク上のカメラが置いてある。
私は、ニコンのミラーレスではない本物の一眼レフを見ていた。
9万円弱はする。
とてもじゃないが私には手が出ない。
女房が許してくれないだろう。
そのとき背後から誰かが近づいてくる気配があった。
ヤマダ電機の店員だった。
私は暇だったし少し話してみよう、という気になった。
それにいろいろ質問したいこともあった。
「メモリー入ってませんから、自由にシャッター押してもらってけっこうですよ」
とその店員は話しかけてきた。
「ミラーレスのでもいいかなと思っているのですが、やはり本物の一眼レフのほうがいいですね」
「そうですね。どういう物を撮りたいかですかね」
「こっちのは16,000万画素、これは24,000万画素で同じくらいの価格帯なんだけど何が違うのですかね?」
「私は、あまり画素にはこだわりませんね。大きく印刷するなら必要ですが…」
「そうですね。私もブログで使うぐらいなのでそれほど画素は必要ではありません」
私は、展示してあったニコン、キャノン、ペンタックス、ソニー、パナソニックのカメラの説明をしてもらった。
「ここに置いてないんですが、私はオリンパスのE-PL3が欲しいと思っているんですが、
 年末に佐久のヤマダ電機に行ったら45,800円で売ってたんですよ。価格.COMでは、40,825円だった。
 それが今年になって36,000円ぐらいに下がっていた」
と私がいうと、店員はやにわに真剣な顔になっていた。
「こちらに来てください」とパソコンの展示してある所に行った。
価格.COMのサイトを表示させた。
オリンパスのE-PL3が、34,254円だった。
店員は電話で誰かと話した。
そして私にいう。
「この価格に合わせることができましたらどうします?」
「えっ、34,254円になるんですか?私は今、ウォーキングの途中なんですよ」
再び電話を彼がした。
そして、「この価格に合わせます」という。
そんなバカな、年末のヤマダ電機と比べたら1万以上も値を下げることになる。
でも、私の心は動いた。
1月中に、ネットで買おうと心の奥底で決めていた。
しかし、配達を待っていたりすることが面倒だった。
留守のときに配達に来たら、なんて考えるとイヤだった。
ヤマダ電機でネットの価格に合わせてくれるなら文句はなかった。
よし、買っちゃおうと思った。
サイフにクレジットカードはあった。
そして私は買ってしまいました。
「どのぐらいで入荷しますか?」と私が訊くと、「ちょっと待って下さい」と倉庫に消えた。
そしてE-PL3シルバーを持ってきた。
「なんでこれがここにあるんですか?」
「ここが開店するときにそれなりの在庫を揃えました。
 しかし、小さい店舗なので展示出来ないものがあるんです」
今日、デジカメを買うなんてまったく考えてもいなかった。
正真正銘の衝動買いです。
買ってからすぐに女房に電話した。
ウォーキングして、ヤマダ電機に寄ったことがまずかった。
年末のころから、女房にカメラを買いたいとは話していた。
それがまさかこんな形で買うことになるなんて、人生って分からない。
真っ暗になってしまったふるさと公園の道を、私はへんな心地よさで帰りました。

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とんぼ

2013年01月11日 | 健康・病気

【清原引退セレモニー】長渕剛「とんぼ」アコギ一本で熱唱



なぜか今夜は長渕が聴きたくなった。
なんか今日は長渕なんです。
いろいろYouTubeで長渕のを聴いていたらこんなのがあった。
音楽的にはちょっと…なんですが、心を打たれるものがあります。
こんなのはごめんだ、と思う人はいるでしょうが、私は好きです。

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夕暮れの湯

2013年01月10日 | 健康・病気

 
村民食堂                               トンボの湯

昨日、私は仕事が休みでした。
おととい、朝8時から夜10時過ぎまでの勤務だった。
疲れてしまって午前中寝ていた。
前日から昨日はトンボの湯に行こうと決めていた。
なのに、ぐずぐずしていて、トンボの湯の湯船に身を沈めたのは夕方の5時過ぎだった。
気持ちよかった。
温泉の中で私は、トンボの湯が一番好きです。
もし私が、軽井沢を離れるようなことがあっても、ここにだけは来たいです。

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えいちゃん 4

2013年01月09日 | 健康・病気

いつだったか、劇団の名前を決めようということになった。
みんなで劇団事務所で話し合った。
みんなでといってもあのころ劇団員は全部で何人いたんだろう?
たしか15・6人、いや20人ぐらいかな?
でも、6畳のアパートに何人ぐらい入れるのだろう?
実際の劇団員は7・8人だったかな?
劇団員じゃなくてもいろんな人間が出入りしていたから、よく分からない。
正直、私の記憶もあいまいです。
いろいろもめて「イエローカンパニー」という名前になった、と思う。
私が提案したのは「哀演児」だった。
進行形の「ing」を「哀しみを演じる子ども」というような意味にして考えた。
けっこうみんなの評判はよかったのだが、採用されなかった。

練習はどこでやったのだろう?
晴れているときは代々木公園が多かった。
デザイン学校の教室も借りた。
公民館などの会議室も借りたと思う。
まだ台本も出来てなかったので、みんなで歌ったり、踊ったり、
ちょっとしたシーンを設定して演じてみたりした。
台本は少年雑誌のあるマンガを原作にして、
脚本を劇団を中心になって立ち上げた男が書くことになっていた。
その漫画家に許可をもらいに行ったりしていた。

3月の上旬、代々木公園での芝居の練習のため劇団員を原宿駅で待ち合わせていた。
なかなか全員が集まらなかった。
そのころ私は仕事を探していた。
試薬会社を退職して1ヶ月はたっていた。
それなりの蓄えもあったが、そろそろ働かなくてはと思っていた。
駅のゴミ箱に新聞が捨ててあったので、それを取り出し読んでいると求人欄があった。
ある大学生協のバイト募集があった。
翌日、文京区にあったある国立大学の生協に面接に行った。
ところが私の前の人で採用は終わってしまった。
「他の大学でもいいですか?」と採用担当者がいう。
私はどこでもいいから仕事がしたいのでお願いした。
ある女子大生協を紹介された。
その足で目白駅からバスで行く女子大に行くと「今から働いてくれ」となった。
4月から新学期が始まるので倉庫には新入生に売る商品が山積みになっていた。
次の日から私は女子大の学バスに乗って仕事に行くことになった。
いつもは目白駅から女子大まで10分ほどの満員バスの中、男はバスの運転手と私だけだった。
試薬会社にいたときはまったく若い女の子に縁がなかったのに、この環境の変化はなんなのだ。

ここまで書いて、そういえば昔このことを九想話に書いたな、と思いだし探してみたらありました。
2003年4月に「哀演児1」~「哀演児6」です。←ここをクリックして下さい。

今、あらためて考えてみるとこれはえいちゃんが新宿の画廊で、あの絵を気に入ったからだ。
たったそれだけで私の生活環境が激変した。
なにしろ本郷三丁目にあった10人弱の零細試薬会社の社員が、6月にミュージカルをやる劇団に入り、
ついでにデザイン学校に入学し、女子大生協で働くことになった。
ところが、私はミュージカルの公演前に「イエローカンパニー」をやめてしまった。
その理由は「哀演児6」に書いてあります。
えいちゃんは、その後も公演までいたと思う。
私が劇団をやめてから、えいちゃんともつきあわなくなった。
私は、昼間は女子大生協で働き、夜はデザイン学校で勉強していたのでつきあう時間がなかった。
同窓会でえいちゃんに会ったとき、原宿の劇団のことは忘れていた。
この九想話を書き始めて思い出した。
あのあと「イエローカンパニー」がどうなったか聞けばよかった。
これからえいちゃんと会うときがあるだろうか?
えいちゃんは、5年前に離婚して今はひとりで暮らしているといっていた。
仕事は、土方をしていると…。
「娘とはたまに会えるんだ」といっていたえいちゃんの表情は明るかった。

                                                        ― 了 ―

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えいちゃん 3

2013年01月08日 | 健康・病気

2月だったか、えいちゃんと新宿を歩いていて、ある画廊に入った。
そこにはあるデザイン学校の学生たちの作品が展示してあった。
1人の女性の絵をえいちゃんはとても気に入った。
そのとき画廊にその絵を描いた女性がいて、えいちゃんと私は彼女と話した。
そして近くの喫茶店に行ったと思う。
彼女はスタイルもよく、素敵な女性だった。
彼女と絵の話をしているうちにいつしか演劇の話になった。
そのデザイン学校の仲間たちが劇団を作り、6月にミュージカルを公演するという。
劇団を作る中心になった人が以前、東京キッドブラザーズにいたということだった。
彼女が、私たちに「劇団に入りませんか?」という。
それでえいちゃんと私はその劇団に入ることをその場で決めた。

劇団事務所は原宿の6畳のアパートだった。
デザイン学校が原宿にあったからです。
劇団事務所に行くといつも何人かがいた。
ほとんどがデザイン学校の学生だが、美大生や音大生、普通の大学生もいた。
無職だった私と大学生のえいちゃんは、毎日のように劇団事務所に顔を出した。
そこに行けば可愛い女の子に何人も会えるのです。
夜には酒盛りになり、芝居、小説、映画の話をしているうちに、いつしか男と女の話になり、人生論になった。
劇団事務所で話しているうちに、どうせ劇団に入ったのなら、
みんなと同じデザイン学校に入ってみようかなと考えた。
絵は中学を卒業してから描いてないが、なんとかなるだろうと思った。
他の劇団員にデザイン学校の試験の内容を聞いて私なりにやってみた。
試験はデッサンと作文だという。
それから私は試験の日まで身の回りのものをデッサンし続けた。
そして私は、そのデザイン学校のⅡ部の試験に合格してしまった。
私はそれから仕事を探した。

                                                     つづく

(すみません、書いているうちに昔の記憶がどんどん出てくるのです。
 こんなに長くなるつもりはかなったのです。もう少し、おつきあい下さい)

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えいちゃん 2

2013年01月07日 | 健康・病気

それがどうしてつきあうようになったか憶えていない。
私は高校を卒業して手工品ギターを製作する工房に弟子入りしたが、
3ヶ月で逃げるように辞めてしまった。
田舎に帰り、兄の紹介で駅前の金物屋(兄の会社の社長の奥さんの店、「の」が多すぎる)の従業員になった。
金物屋の仕事はつまらないものだった。
私は希望のない金物屋の店員を辞めて、大学に行こうと考えた。
大学に入って教師になろうと決心したのです。
そして翌年、予備校に入るために上京し、
新聞で見つけた試薬会社に就職して、夜間の予備校に入った。
ところが予備校では受験勉強についていけず、夏休みが終わってから行けなくなった。
受験勉強が厭で、仕事が終わると3畳のアパートに帰って小説を読んでいた。
そして小説を書きたいと思うようになった。
同じ会社にいた龍彦はボクシングジムに通っていて、その冬にプロテストに合格した。
ところが龍彦は、ボクシングが怖くなったといって、
プロデビュー戦の1週間前にボクシングを辞めてしまった。
それから、夢に見放された龍彦と私は、毎日のように酒を飲んでいた。
そのあたりだっただろうか、えいちゃんとつきあうようになったのは。
しかし、どうして離れていたえいちゃんと私が近づいたか記憶にない。
彼は早稲田大学の学生になっていた。
昼間大学に行ってるのか行ってないのか、夜になるとしょっちゅう私のアパートに来た。
そのとき私は駒込にいた。
彼は、会社勤めの姉さんと千葉の市川に住んでいた。
酒が飲めないのに、私と龍彦につきあってくれた。
四つ玉のビリヤードをよくやっていた。
私と龍彦がリコーダーを吹いていたせいか、彼も買って吹くようになった。
会っているときはいつも小説・映画の話をし、リコーダーを吹き、ギターを弾いた。
彼と私とで旅もした。
龍彦は、ふらっと東京を離れ、関西に行ったりしていた。
休日前の夜中、2人でいて「どっか行こうか」となる。
そしてそのまま夜行電車に乗って旅に出た。
金沢・長野などに行った。

えいちゃんといると私は彼の“下”にいた。
彼は私の名前を呼びつけにし、私は「えいちゃん」と呼んでいた。
彼は私に上から目線で話し、私は“幼なじみ”という感じでつきあった。
私と彼の会話は、だいたい激しい議論に発展した。
彼がよく私にいっていた。
「おれのいうことは論理的だが、おめぇのは情緒的なんだよな。これじゃ議論にならねぇよ」

私は太宰治・坂口安吾が好きで、彼は三島由紀夫のファンだった。
私も三島由紀夫の小説も読んだが、あまり好きになれなかった。
いつしか私はいろんな作家の小説を読むようになった。
あのころ一番読んだのが安部公房かな?
渋谷のパルコに劇団「安部公房スタジオ」の芝居も何度か観に行った。
芝居も好きになり、井上ひさしの芝居、寺山修司の天井桟敷、唐十郎の赤テント、
東由多加の東京キッドブラザーズも観た。
そのころ私は演劇をやりたいと思うようになっていた。
21歳の冬に私は試薬会社を退職した。
演劇の養成所に入って役者になりたいと思ったのです。

                                                  つづく

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えいちゃん

2013年01月06日 | 健康・病気

同窓会の始まる前に誰かが、「I が来るのか」というのが聞こえた。
もらった同窓会名簿を見ると、I の名前の左のところに○があった。
○が出席で×が欠席、空欄はハガキを出しても返事の返ってこない人のようだった。

I は、私の生まれた集落の人間で小学4年まで同じ分校に通っていた。
その頃から頭はよかった。
分校の仲間は彼のことを「えいちゃん」と呼んでいた。
彼の父親は国鉄に勤めていた。
分校に来ている児童のほとんどの家は農業だった。
低学年のころ、彼の誕生パーティに呼ばれたことがあった。
そんなことをしてくれる母親が私は羨ましかった。
勤め人の家は豊かなんだな、と子ども心に思った。

学校で、私と彼とのつきあいは少なかった。
中学校で彼はサッカー部に入った。
私は、吹奏楽部だ。
ほとんど接触がなかった。
だけど、3年のときクラスが一緒だったこともあり、たまに深夜放送のことなどを話した記憶がある。

高校は別々になった。
彼がS市のS一高で私は地元の岩*高校だった。
昨日も書きましたが、私も彼の高校に入りたかった。
そういうわけで高校時代はまったく離れてしまった。
ところが私が東京で暮らすようになってから彼とのつきあいが始まった。
                                                                                                 つづく

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同窓会

2013年01月05日 | 健康・病気

岩*中学校昭和43年3月卒業の同窓会に行ってきました。
1月2日は快晴で、暖かい日だった。
私は、幼なじみで高校まで同じ吹奏楽部にいたKと彼の奥さんの車で一緒に行った。
彼は、幹事の1人だったので10時半までに行かなければならなかった。
同窓会が始まるのは正午からだった。
会場の受付には懐かしい顔があったが、“見知らぬ”顔もいた。
といっても“見知らぬ”人がいるはずもない、同窓会なのだから。
しかし、“見知らぬ”同窓生がたくさんいたことは事実です。
私は中学生のころあまり目立つほうではなかった。
どっちかというとまったくのその他大勢の1人だった。
学校の成績が良いわけでもなく、スポーツはまったくだめで、
吹奏楽部でトロンボーンを吹いていた静かな中学生だった。
ただ、私たちが中学3年のときに始まった深夜放送は毎日聴いていて、ヒット曲やDJには詳しかった。
中学では私より頭の良い人はたくさんいて、私が行った高校より優秀なところに彼らは行った。
私がつきあっていた人はそんな人が多く、ランクの低い高校に行った私は彼らと縁遠くなってしまった。
最初私が進学したいと思った高校は、彼らと同じ高校だった。
ところが家の経済では交通費(電車代)が払えない、ということで自転車通学ができる岩*高校になった。
私はあのとき人生で初めての挫折のようなものを味わいました。

11時過ぎ、担任のH先生がいらっしゃった。
多くの同窓生が挨拶し終わってから私は先生に挨拶をした。
私の名前をいうと先生はわかってくれた。
「おまえ中学のときは痩せてたよな、今みたいに丸い顔してなかった」
私は、今年は絶対痩せようと心に誓った。

私は会場のどこに坐ろうかと迷っていた。
やはり話したい人のところに行きたかった。
だが、この人と話したいと強く思う人もいなかった。
すると中学生のときはパッとしなかったやつが声をかけてきた。
「キュー、こっちに来い」と、そこは2人の先生の隣だった。
中学のときは「キューさん、キューさん」と慕ってきた奴です。
父親の工務店の跡を継ぎそれなりの会社の社長としてこれまでやってきた。
彼から見ると現在の私は「キュー」なのだろう。
「あ…わかった」と彼のところに坐った。
私はこういうところに来ると進んで話をする人間ではない。
なんか気後れしてしまう。
先生といろいろ話した。
出席してくれた先生は2人だった。
どちらも同じ歳で77歳だった。
私の絵の能力を認めてくれていた美術の先生だった5組の担任のA先生は、
昨年81歳でなくなったそうだ。
私は中学のとき美術と音楽は「5」だった。
先生に描いた作品を持っていくといつも90~100点で、だから私は、美術の時間が大好きだった。
音楽の時間より好きだったかもしれない。

12時から同窓会は始まった。
幹事代表・先生の挨拶があり、それから写真撮影になった。
私たち同窓生は全部で244人で(クラスが6組あった)、その日来たのが64人だった。
会場に戻って乾杯をした。
それから1人ひとりの挨拶になった。
私は、高校を出てから15以上の会社を転々としてきたことを、
それでも所帯を持ち、双子の息子を育て孫が2人いることを話した。
九想話を14年書いていることをいおうと思ったがそれはやめた。
インターネットとかブログとか無関係の人ばかりのような気がした。
全員の挨拶が終わり、それから30分もたたないうちに同窓会が終わった。
といっても同じ会場で二次会だった。
最初に同窓会と二次会分として8千円と2千円の計1万円を払っていた。
帰る人もいたが半分以上は残っていた。
それから二次会も終了しほとんどの者が帰り、12・3人が三次会へと行った。
なぜか私は帰りたくなく、友人が経営している三次会のお好み焼き屋に行った。
それから最後は7・8人ほどがカラオケ本舗まねきねこに転がり込んだ。
だいたいこういうときに私は最後までいる人間なんです。
まねきねこには西軽井沢店(御代田)で年に何度かお世話になっている。
最後は、水戸の先のほうに住む女性に車で送ってもらった。
彼女はアルコールを飲んでない。
4人の男を家まで届けて水戸の先の家まで帰って行った。
考えれば女性は彼女1人だった。
最後までいたい何かがあったのだろう。

ざっと書いても長くなってしまったが、もっと書きたいことがある。
それは2人の同窓生のことです。
この2人とは高校を出てから東京で何年か付き合っていた。
そのうち連絡をとらなくなってしまった。
2人のことは明日以降に九想話に書きます。

  

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久しぶりのウォーキング

2013年01月04日 | 健康・病気

今日、軽井沢に帰ってきました。
女房の家を朝の7時に出た。
所沢ICから関越に乗った。
午前中は渋滞はないのではないかと思ったのだが、鶴ヶ島あたりで渋滞になった。
あれは怖いですね。
私もハザードランプをつけたのだが、後ろから追突されそうです。
やはり今日は平日よりは車が多かった。
軽井沢に着いて道路のデジタル表示の温度計を見るとマイナス7℃だった。
ああ…、軽井沢に帰ってきたな、と実感した。

 
となりのペンション

夕方、今年初めてのウォーキングをした。
寒かったが、ここでしておかないと、という気持ちになり家を出た。
考えれば、昨年の12月はほとんどウォーキングをしていなかった。
仕事が忙しいこともあったが、それ以上に寒かった。
寒くて歩くのがつらかった。
1月はほとんど日勤だからできない。
私は夜勤のとき、午前中にウォーキングをしていた。



ここから見る浅間山が好きだ。
ここはウォーキングをするときはできるだけ行きたい所です。

  
至旧軽井沢                             至小諸

軽井沢バイパスにある歩道橋に初めて上がった。
道路の向こう側にあるヤマダ電機に行ってみようと思ったからです。
ついでに写真を撮ってみた。

 
ヤマダ電機                              ツルヤ

歩きながら年末年始休みにあったことをいろいろ考えた。
同窓会は楽しかった。
明日、九想話に同窓会のことを書きたいと思う。

あっというまに休みが終わった。
明日からがんばって仕事をしよう。

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筑波山

2013年01月03日 | 健康・病気

     

私は、1日に茨城の実家に行った。
2日に中学のときの同窓会があったからです。
この山が筑波山です。
どうです、うつくしいでしょう。
生まれてから高校3年までこの山を、私はずーっと眺めて生きてきました。
この写真を撮ったのは、「筑波山は“山”じゃない」と女房がいうので、
筑波山の写真を見せて、「これは山だろ」と納得させるためです。
私が長野で暮らすようになって女房が長野の山々を見て高いと思った。
そのときから「筑波山なんて“山”じゃない」と言い始めた。
彼女がそういうには理由がある。
筑波山には、標高871mの男体山と東側の標高877mの女体山がある。
「1000m弱の山なんて山じゃない」と女房は自信たっぷりにいう。
私が大好きな筑波山をそういうふうに言われたくない。
私が子どものときから憧れてきた筑波山をバカにされたくはない。
確かに長野の山々は高い。
でも筑波山は“リッパ”な山だと私は思う。
それはそれとして、私は筑波山より高いところで生活をしている。
私の暮らしている中軽井沢は900mほどの標高がある。
なのでしょっちゅう霧が出ます。
私が子どものころ、まさか筑波山より高いところで暮らすとは考えていなかった。

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