われわれが、自我というものを押し広げていくと、人も同じ人間ということがわかり、
大我ということにもなる。これが一番よくわかるのは、子供を持ってからです。
子供を持たない若い人は、ずっと年の違った妹くらいで、わずかに推量ができる
くらいのものである。
自分の子供が、歯が痛い、腹が痛いというときに、それくらいのことは耐えれば
よい、とかいうふうにけっして考えぬ、どんなに痛かろうかと思って、自分も
それと同じ痛み・苦しみを感じる。これが本当の同情である。
自分の妹が、欲しいものが買えないというと、一緒に残念に思い、友人が試験に
合格すれば、一緒に喜ぶ。これを同情といって、同悲・同喜といいます。
相手も自分も、同じ我になって考えるのである。
これに反して、自分一人の我を盾に、人の不幸や病気を見たときに「自分で
なくてよかった」とか、「それくらいの苦しみは耐えればよい」とか、「死んだ
ものは、あきらめるよりほかにしかたがない」とか、「病気のときは心を
呑気にもたなければいけない」とか、自分のかってなことばかりをいっている。
これを小我というのである。多くの人の悩みを悩み、世の人の喜びを喜ぶ、
これが大我であって、志士・仁人の心持である。
─『現代に生きる森田正馬のことば Ⅱ新しい自分で生きる』生活の発見会編 白洋社
人をあるがままに同情できる人間になろう。
森田氏は子供がいないとわからないようなことをいっているが決してそういうことは
ないと思う。なぜなら、この相手の立場に立つということは、人類の課題だからだ。
子供をもって大我がわかっているなら、現在のような地球になっているはずがない。
子供がいてもわからない親が多いから、世の中がよくならず大我も同情もわからず、
過ごしているのである・・・
自分が一人では生きられないことがわかり、共存共栄を身につけなければ、生きられない、
ということを個人個人が自覚していなければどうにもならない。
感覚で相手の立場に立てる人は、それを伸ばし、その感覚が育っていない人は思考に
よって、演技でもそういう態度をとってみる・・・人の協力がないと生きられない
状況を選んで生活する、そういうことをしなくてはならないと思う。
大我ということにもなる。これが一番よくわかるのは、子供を持ってからです。
子供を持たない若い人は、ずっと年の違った妹くらいで、わずかに推量ができる
くらいのものである。
自分の子供が、歯が痛い、腹が痛いというときに、それくらいのことは耐えれば
よい、とかいうふうにけっして考えぬ、どんなに痛かろうかと思って、自分も
それと同じ痛み・苦しみを感じる。これが本当の同情である。
自分の妹が、欲しいものが買えないというと、一緒に残念に思い、友人が試験に
合格すれば、一緒に喜ぶ。これを同情といって、同悲・同喜といいます。
相手も自分も、同じ我になって考えるのである。
これに反して、自分一人の我を盾に、人の不幸や病気を見たときに「自分で
なくてよかった」とか、「それくらいの苦しみは耐えればよい」とか、「死んだ
ものは、あきらめるよりほかにしかたがない」とか、「病気のときは心を
呑気にもたなければいけない」とか、自分のかってなことばかりをいっている。
これを小我というのである。多くの人の悩みを悩み、世の人の喜びを喜ぶ、
これが大我であって、志士・仁人の心持である。
─『現代に生きる森田正馬のことば Ⅱ新しい自分で生きる』生活の発見会編 白洋社
人をあるがままに同情できる人間になろう。
森田氏は子供がいないとわからないようなことをいっているが決してそういうことは
ないと思う。なぜなら、この相手の立場に立つということは、人類の課題だからだ。
子供をもって大我がわかっているなら、現在のような地球になっているはずがない。
子供がいてもわからない親が多いから、世の中がよくならず大我も同情もわからず、
過ごしているのである・・・
自分が一人では生きられないことがわかり、共存共栄を身につけなければ、生きられない、
ということを個人個人が自覚していなければどうにもならない。
感覚で相手の立場に立てる人は、それを伸ばし、その感覚が育っていない人は思考に
よって、演技でもそういう態度をとってみる・・・人の協力がないと生きられない
状況を選んで生活する、そういうことをしなくてはならないと思う。
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