前日紹介の茅葺き民家の直ぐ近くにも、もう一軒・・・・・
集落本通りから脇道に入った家並に紛れる様に・・・・
茅葺き屋根の民家が大屋根に雪を残していた。
東近江の民家らしく破風には、しっかり前垂れ飾り・・・。
裏庭にはふきのとうも顔を出し、春を待ちわびてる様でした。
撮影2012.11.2
前日紹介の茅葺き民家の直ぐ近くにも、もう一軒・・・・・
集落本通りから脇道に入った家並に紛れる様に・・・・
茅葺き屋根の民家が大屋根に雪を残していた。
東近江の民家らしく破風には、しっかり前垂れ飾り・・・。
裏庭にはふきのとうも顔を出し、春を待ちわびてる様でした。
撮影2012.11.2
琵琶湖東岸、能登川町に残る茅葺き民家。
旧能登川町は琵琶湖に注ぐ愛知川と大川に挟まれた水郷穀倉地帯・・・・そんな一面の田園地帯に幾つもの農村集落が軒を連ねている。
そんな集落の一つで見付けた茅葺き民家・・・・・この民家はどうも奥入り、周りに建物が建ち込み、撮影ポイントがこの方向だけ。
下屋を棧瓦葺きとし、上に入母屋茅葺き屋根を載せてるが・・・もう随分草臥れ果てている。
今度来るときにはもう無くなって居るかも??
撮影2012.11.2
滋賀県湖南、草津市近江大橋東詰め近くに一軒残った茅葺き民家。
琵琶湖岸、矢橋帰帆島をすぐそこに見る緑豊かな農村地域・・・しかし交通アクセスが良く、都会化の波が押し寄せ、のどかな農村風景が残る地域も少なくなって来た。
大きい瓦屋根の田舎建家が居並ぶ中、もう相当疲れ果てた茅葺き民家が残ってた・・・
大きい入母屋屋根にトタンの棟押さえを被せ略式化・・・
往時、この付近は湖岸近く、二角琵琶湖に注ぐ川に挟まれ、屋根材料の葦には苦労しなかっただろう・・・。
しかしこの屋根を見ているとどうも葦葺きではなく麦藁を使っているようにも見えるが・・・それは屋根が疲れすぎているからに過ぎないのだろうか???
撮影2014.3.12
やっと春めいてきた我が散歩道、散歩途中に一転俄かに雪雲が流れ出し・・・・
瞬く間に空が真っ暗になり、雪がチラチラ・・・・
見慣れた景色は、いつもと全く違う顔を見せだした。
対岸の山にも雪雲が流れ出し、もう山手は雪が舞ってるような・・・・・
黒雲はますます厚くなり、散歩途中の僕の足は当然の様に早足になる。
思いもせぬような速さで冷たい雪が顔を突き刺し付近の景観をモノトーンに変えていく。
この山城ではあまり見かけぬ横殴りの雪。
河川敷の茶畑や竹藪にも,季節はずれの横殴り雪・・・・たぶんこれが今年の名残雪。
30分ぐらいで何事も無いように治まってしまった・・・・寒かったけど滅多に出会えぬ景観に出逢えた今朝の散歩道。
撮影2015.3.10
湖南、日野町の古刹、金剛定寺の三層石塔。
誰の目にも古刹であることが一目瞭然の佇まい・・・
金剛定寺は日野町中心街より西へ約6km、農作地帯の小高い丘に軒を並べる中山集落の中程に建つ。
金剛定寺は、聖徳太子が建立した四十八院のうちの一院で、現在 天台宗の寺院。
日野町内でもっとも古く、奈良時代にはすでに相当の勢力を持つ寺だったようで、現在地を中心にして東谷西谷のすべての地内にぎっしりと堂塔伽藍や僧坊が立ち並んで居たといいます。
そんな境内に建つ三層石塔は、各層の屋根と上層軸部は一石からなり、現在不自然な三層石塔と成っているが・・・もと七重であったとの説もある。
<正面>
初層塔身部には舟形を彫りくぼめ四方仏坐像を半肉彫り、基礎石にはそれぞれの種子を薬研彫りしている。
<東面>
屋根石は分厚く力強い反りを持ち、初層塔身が馬鹿に背が高い。
<西面>
基礎石にキリークを刻み、四方仏の阿弥陀如来坐像を刻み出している。
塔身に対して基礎石が小さすぎアンバランスなのは五輪塔の基礎を流用していると言う事でした。
鎌倉時代中期 「建長四年(1252)壬子十月十八日」の刻銘があり、日野町の指定文化財。
撮影2012.10.26
近江八幡市大房町、邇々藝志(ににぎし)神社境内に在る五層石塔と妙な形の地蔵尊。
この画像はグーグルビューなので分かり易いと思いますが・・・市街を抜け、西へ向かう県道26号線を道成り、湖岸穀倉地帯の真ん中に初めて表れる集落。
集落は小さな農村集落でこの辺りのどこでも見られるような鄙びた佇まい、そんな集落の中程に、この難しい名前の邇々藝志(ににぎし)神社が鎮座している。
境内奥、拝殿の右、境内端に石塔の残欠などと共にこの石塔が建って居る。
現況五層石塔の様に見えるが・・・この残欠が石塔の笠部とすると、たぶん十三重石塔では無かったのか??
基壇石の上に在る基礎石の側面には縁枠を残した中に開蓮華紋?を配し、初層塔身には舟形の中四仏が刻まれて居る。
妙なことに基礎石から上の笠石の四隅には土饅頭が乗せられて居た・・・・・子供の悪戯かとも思えたが、他にもこの土饅頭の事を描いた記事があったのでこれは何かの呪物なのかも知れない。
一方その右手には、一見石柱にも見える様な六角柱の頭を丸めたそれぞれの面に舟形作り、小さな地蔵立像刻み出す。
六角柱のそれぞれの面に一体づつ刻まれ合わせて六体地蔵。
神仏習合の時代には、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を権現とみて、地蔵菩薩の垂迹なので、そんな関係での地蔵なのか??
それにしても六角柱の六体地蔵など見たことも無い。
撮影2012.1.26
野洲市 苗田神社に残された仁王塔と呼ばれる七重石塔。
苗田神社は以前、勧請縄でも紹介した事のある神社、「せせらぎの里」と呼ばれる水田農村集落の真っ只中に在る。
石塔の場合は十三重塔が大部分を占めると思っていたが、この付近では意外にも十三重以外のものにお目に掛かる事が多くて驚き。
笠石は上層部で欠損が目立つ他はほぼ完存・・・各層の屋根上部に上層の軸部をつくりだす。
初層軸部には舟形を彫りくぼめ四方仏坐像を刻み込、軒下の垂木型はつくらず、屋根は力強い反りを持つ。
三層目軸部から誰下げられた小勧請がいかにも湖東という感が有り面白い。
撮影2012.10.26
JR守山駅の北西約800m、旧中山道の町並みに埋もれる様に建っている。
最澄が鎮護国家の道場とした叡山三千坊の「東門」にあたるためこの名称が付けられたとも、坂上田村麿呂の伝承のように「皇城」の「東門守護」から付けられたとも伝えられる名古刹です。
そんな古い歴史を持つ寺に相応しく、境内南端隅に、木立を背に三古石塔が建っている。
そんな中、なんと言っても目を惹くのがこれ・・・高さ287cm、いかにも古様な笠を持ち、各重とも塔身と笠が別石の層塔形式の五重石塔・・・基礎石は、幅広で低い。
上に載る初重塔身は、前後二石からなり、舟形内に正面、阿弥陀、背面、釈迦と見られる如来型坐像を刻み出す。
刻銘は有りませんが鎌倉時代前期の造立とされ、重要文化財に指定されて居る。
向かって左手の宝塔は高さ159Cm、基礎石は高く塔身は低く小ぢんまりしている。
屋根石の背面が欠損、双輪も後補。
基礎石は立派で各側面には幅広の枠を残し内に格狭間をつくる。
鎌倉時代末期の造立とされ、重要美術品指定。
最後は右手の宝篋印塔・・・・高さ167cm、塔身には月輪内に金剛界四仏の種子を刻み、基礎側面には輪郭を巻き内に格狭間内開蓮華(かいれんげ)を陽刻する。
鎌倉後期の造立とされ重要美術品に指定されて居る。
見事に三石塔が居並ぶ姿はあまり見慣れない。
境内東脇、鐘楼横の小石仏の集積には・・・こんな地蔵石仏も・・・・。
撮影2012.10.26
野洲、井口町「佛法寺」 とその同境内に建つ「千原神社」に残された二基の石塔。
野洲川右岸、兵主大社に程近い井口集落の中程に並び建つ寺院と神社・・・・勿論明治までは同一だったのだろうが??・・・・どことも同じくで現在寺の名と神社の名は別々に成っている。
しかし境内は仕切りの無い同一境内で誰が見ても明治の神仏分離で不自然に成っていることが一目瞭然。
そんな右手には「千原神社」が建ち、石鳥居左手には小ぶりながら立派な宝塔が建ち尽くして居る。
高さ 152Cm、基礎石に太い枠を取り、三茎蓮を刻み、塔身正面には、扉型を刻みだしている。
笠石は無骨なほどに厚く力強く、鎌倉期の特徴を良く表し、両側の束に「文保三(一三一九)四月八日」の紀年銘が確認され、鎌倉後期の造立。
方や境内続きの「佛法寺本堂」左手脇にはどっしり構えた宝筐印塔。
基礎石側面には、それぞれ格狭間内に開蓮華文様を浮彫に・・・・
上部には複弁の反花を施し、また塔身には月輪を薄く陰刻、内に金剛界四仏の種子を刻み込む。
塔高、233Cm、基礎石両側に「文保三年己未三月廿三日、願主左衛門尉景光」の銘がある。
宝塔と同年号を持ち、同時建立したものでは無いだろうか??
撮影2012.10.26
湖南、守山市の湖岸に近い副林寺境内に並び建つ、二基の石造宝塔が建っている。
旧野洲郡下最古の歴史をもつ寺院と言われる「副林寺」は、木浜集落の真ん中辺り、集落を縦断する旧道脇に狭い境内があり、山門が道路とくっつく様に接して居る。
もとは野洲に在り、「最澄(767-822)」が開いたといわれる古刹ですが、例に漏れず戦国時代に焼け落ち、後この地に再興された様です。
宝塔は本堂右手脇、背の低い植え込みの中に建てられ、二基の宝塔は殆ど瓜二つ・・・・・
<向かって右手の宝塔>
この宝塔は鎌倉時代の武将・「佐々木高綱」が「宇治川の戦い」に出陣する折、「経筒を塔身に収めた」と寺伝にあるといわれ・・・・・・
後補のつぎ足し相輪を除く高さ 218Cm、塔身下部正面に如来坐像が浮彫され、風化摩耗が激しく不確かながら釈迦如来だと言われて居ます。
<向かって左後方側から・・・>
向かって左塔は高さ255cm・・・共に二段の首部が大きく高い。
屋根石の軒反りは力強いものの重量感に少し欠け、鎌倉中期から後期への移行期の造立???
しかしなぜに同じ宝塔を二基も同時に造立しなければならなかったのだろう??
一方、横手には不動明王立像を刻み出した石龕仏・・・・略式化、形式化の進んだ江戸期の造立か????
撮影2012.10.26
昭和24年、放火により殆どの建物を無くした境内方隅に佇む三体の石仏。
比叡山裾、千日回峰行で名を馳せた故酒井雄哉高僧が住職を務めた「飯室不動堂長寿院」前から、安楽谷に山道を歩くこと10分足らず、小さな谷を越えると正面に閑静な山門が見える。
江戸時代、戒律主義を唱えた僧、妙立、霊空ら安楽律一門が叡山の三魔所といわれる飯室谷に住んだのが始まりと伝える。
昭和24年放火に依り、今は山門と小さな本堂だけが残る無住の寺となってしまい、広い境内は老木に囲まれ、苔むした庭や石垣が残り
格好の時代劇ロケ地と成って居ます。
NHK大河ドラマ「江」や(第1話・信長による比叡山焼き討ちの場面)、山門は、映画「るろうに剣心」のロケにも使われたそうです。
NHK大河ドラマ「江」の撮影地(第1話・信長による比叡山焼き討ちの場面)となりましたので
信じられないくらいの静寂さに満ちた斜面裾の苔むす石段上に居並ぶ三体の石仏。
高さ約1.5m程、軟石質板石に円頭光を持つような如来型立像。
像高約1mばかり、右手施無畏印、左手与願印の阿弥陀如来??
向かって左には、やっぱり板石状、同高ぐらいで螺髪の如来立像・・・苔生し、印相も判然とはしないがこれも阿弥陀石仏??
向かって右手・・・ちょっと貧弱ながら、やっぱり阿弥陀に見えてしまう・・・
像容、尊顔共に中央の阿弥陀が一番、 造立年代も同一とは思えず、この石仏が古そう・・・・・
眉間の白毫にはガラス玉でも嵌められて居たのだろうか??
どうもよく解らない石仏達です。
撮影2012.10.16
先日、一昨日に引き続き安養寺関係の石仏さん。
一昨日の五重石塔から四辻を越え僅か100m程東、集落に隣接するように安養寺墓地が有り、古い石造物が一群れ並び立てられている。
中でも六字名号板碑を挟み左右にそれぞれ一体づつの阿弥陀石仏。
中でも向かって左手の阿弥陀坐像は大きな蓮座の上に坐し、中型ながら肩張り、肘張りも力強く鎌倉期の像容を偲ばせ、目を惹く。
他に一石五輪や板碑、小石仏も沢山あり、廃安養寺の勢力の程を窺わせる。
撮影2012.10.16
先日の安養寺址に程近い荘厳寺境内に立つ塔婆風の石仏さん。
JR東海道本線篠原駅より西へ約200m、産土神「上野神社」の隣地に荘厳寺がある。
「荘厳寺」は旧安養寺と同じく「上野神社」の神宮寺で、天台寺院だったようですが、江戸初期に浄土宗へ転宗したと言い、境内にもその面影を偲ばせる古石仏が残されて居る。
山門を入って左手、庫裡前の植え込脇に特徴のある背の高い、石塔婆様地蔵石仏が立っている。
総高約2m程、塔婆様一石の下部を腰高基礎石とし、上部を舟形に整形、蓮座に立つ定形地蔵立像を半肉堀で刻み出す。
優しく慈悲深い尊顔ながら全体に形化簡略化が進み、室町後期の造立とされて居る。
一方山門の右手脇には、一群の小石仏が集められ、並べ立てられている。
これらの石仏は付近の田畑などから出土したものなども多く、室町期の物が多い。
比叡天台仏教受難の石仏さん達です。
撮影2012.10.16
道路脇、広がる湖東田園地帯を背に忽然と建つ五重石塔。
近江八幡市の南端、JR東海道新幹線が田園地帯を切り裂く、東海道本線「篠原駅」のすぐ近く、国道477号線脇の小さな空き地に五輪塔や小石仏と共に立つ。
この地には元、「安養寺」という天台寺院の古刹が在った様ですが、信長の焼討ちに遭い、現在地名にその名を残している。
多層石塔は通常十三重塔が一般的だが、これは珍しく五重石塔・・・・石塔は総高4.36m、基礎石には近江塔の特徴である三茎蓮を刻み付ける。
双輪は部の一部が不完全ながら、塔身部の顕教四仏や屋根石の厚みも軒反りも充実している。
正面、南面の釈迦如来坐像・・何故か尊顔が潰れてるような・・・・
鎌倉前期、寛元4年(1246)の名が確認され、国の重要文化財指定。
脇には鎌倉期五輪塔の残欠・・・
これも古式の笠塔婆なども残されて居た。
撮影2012.10.16