愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

伊賀市 西山の十三体磨崖仏

2013年11月15日 | 石仏:三重

棚田の連なる西山集落の外れ、民家の軒先に磨崖の多尊石仏が有る。

その昔、山城、信楽方面から伊賀に抜ける御斎峠、その直下、西山集落に古い石仏が有ったとしても何の不思議も無い。

棚田を潤す小さな小川沿い、元、ここには廃寺になった寺でも在たのだろうか???、小石仏や五輪塔の残欠などが一緒に並べられて居る。

磨崖仏は、幅約2m足らず、高さ約50~60cm、元々この様な形の岩だったのか?切り出された物か?は解りませんが・・・・・

整形した花崗岩の正面上部に、高さ30cm足らず、横長短冊状に彫り沈め、中に20cm程の小さな石仏が刻みだされて居る。

石仏は蓮座に座する形で横一列に13体、それぞれの頭上には頭光背が刻まれて居る。

横一列の十三仏もこの辺りでは見ることも有りませんが・・・十三仏かどうかさえ、風化摩耗が激しく確定し難い。

しかし路傍の石仏として良い雰囲気を醸し出しています。

撮影2012.3.25


伊賀市 下友生(しもともの)辻の石仏群

2013年11月14日 | 石仏:三重

伊賀市郊外、下友生(しもともの)でたまたま出遭った石仏さん達。

下友生は、名阪国道友生ICを降りて直ぐ、木津川支流、久米川右岸の田園域に軒を連ね、旧態をよく残す古い集落。

集落外れに友生神社が有り、在所道を挟んだ大日堂への参道脇に古石仏が並び立てられて居る。

中でも中央の二石仏、向かって右側は錫杖、宝珠の定形地蔵だが、他方左手の石仏は見たことも無いような珍らしい意匠で僕の目は釘付け・・・・。

幅の広い舟形光背を背に、定形、合掌の双体地蔵立像、頭上には小さいながら蓮台に載る三尊仏と、その両脇には供養者像とも思われる細工が有る。

1m足らずの中型石仏ながら珍らしい意匠、全体的像容から隣り合う地蔵石仏共々、室町末期頃の造立か??

撮影2012.3.25


伊賀市瀧 瀧不動磨崖仏

2013年11月13日 | 石仏:三重

青山高原西側裾野、滝集落「熊野三所神社」奥の院、行場の滝岩に刻まれた不動明王磨崖仏。

木津川の源流域に建ち並ぶ滝集落の外れ、上切橋で右折、奥院川を遡ると対岸に「熊野三所神社」を見、更に奥へ詰めると「瀧の権現さん」と呼ばれ、神木が聳える滝行場がある。

奥院川を流れ落ちる滝は「三筋の滝」とも呼ばれ、落下する滝の奥壁に不動明王が刻まれている。

意外と水量が豊富なため、これ以上の全容画像は不可能ですが・・・、不動明王磨崖仏は岩肌を舟形に整形、火焔を線彫り、不動明王立像を半肉彫りで力強く刻み出して居る。

火炎には少し朱の彩色痕も残り、近世の造立だろうか・・・・。

撮影2012.3.7


伊賀市玉滝 普賢院の六地蔵石幢

2013年11月12日 | 石仏:三重

旧阿山町、玉瀧神社と境内を一にする普賢院に佇む六地蔵石幢。

伊賀と甲賀を結ぶ街道の要所、その四差路近くに玉瀧神社への参道が伸び突き当りの急な石段を登ると、山腹の玉瀧神社の境内となる。

境内は広く拓け、神社と寺が段違いで同居・・・・・・明治維新の廃仏毀釈の波から難を逃れて旧い姿を彷彿とさせて呉れる

ちょうどその境界辺りには神木の巨杉が鐘楼を従え、そんな事知るもんかと言わんばかりに聳えて居る。

山深い田舎では度々目にする光景・・・・これが明治まで1000年も続いた本来の景観なんだろう。

神社境内から低い石段を登ると目の前に建つのがこの六地蔵石幢・・・・・

龕部六地蔵には小さく真っ赤な涎掛け。

涎掛けはちょっと失礼・・・・、しかしなんだか寸足らず、返り花の基台と受台の間に立つべき竿部が有りません。

どうも、なんだかチンチクリンな気がしたのはそのせい・・・・。

笠部の庇も二箇所で欠落、・・・・しかし幢身六体地蔵は失くした物を補っても余りある見事な彫りで、見る人の目を惹きつける。

厚肉彫りの六地蔵は像容も優れ、頭上には円頭光、像高約30cmばかりで蓮座の上に立って居る。

その様式、像容から室町初期の造立??

ここは古く、東大寺玉瀧杣の旧跡だとされています。

撮影2012.3.25


名張市葛尾 弁財天線刻磨崖仏

2013年11月12日 | 石仏:三重

木津川支流の一つ、名張川に注ぐ笠間川合流口、左岸岩壁に刻まれた弁財天磨崖仏。

ここは三重県名張市と奈良県山添村との境界辺り、この山腹の葛尾集落はかって一つの集落で有ったろうに現在県境が集落の真ん中で引き裂いている。

そんな三重県側葛尾集落への進入路が磨崖仏の背をかすめて通っている。

弁財天磨崖仏は川岸に露出した高さ約2m程の花崗岩に像高約1.1mの弁財天立像を線彫りで刻みつけて居る。

弁財天は水の神、富貴の神とも称され、七福人の紅一点として庶民からの信仰が強かった。

眉目、唇に彩色痕が残り、いかにも稚拙な像容で江戸時代後期かそれ以降の造立か??

石仏としての価値は見いだせませんが、この地域には珍らしい磨崖仏です。

撮影2012.3.4


伊賀市内保(うちぼ) 西音寺の笠塔婆

2013年11月11日 | 石仏:三重

伊賀市の北端、滋賀県甲賀市と県境を接する、旧阿山町内保の西音寺に有る笠塔婆。

伊賀上野の中心街より北に約15km強、玉滝より甲賀甲南町へと里山を走り抜ける県道133号線、三重県側最終集落の内保は傾らかな丘陵地域の棚田斜面上に軒を並べる鄙びた小さな集落。

集落の最上手に西音寺が有り、本堂右手には、廃寺になった旧安楽寺本堂が西音寺薬師堂として移築され、その本尊薬師如来は藤原様式の仏像として三重県の文化財に指定されて居る。

薬師堂脇、上段墓地への入り口に六体地蔵と、その中央に、この一際古びた笠塔婆が建って居る。

両脇の六体地蔵とは明らかに造立期が異なる造り・・・・、ひょっとしてこの笠塔婆も旧安楽寺の遺物では無いだろうか??

少し扁平勝ちの方形塔身は高さ約1.2m、往時の笠は亡失・・・、現在は層塔の屋根に五輪塔の風空輪が載せられています。

正面上方には舟形を落とし、蓮台に立つ像高30cmばかりの来迎印阿弥陀立像を刻み出して居る。

下部には六字名号をを陰刻、左手側面上部に月輪内の「アク(不空羂索如来)」を、右側には同じく「タラーク(宝生如来)」を刻み、古式を引き継いだ様式を持って居る。

その全体像から南北朝前期の造立だと考えられ、この地域の笠塔婆としては、注目に値する。

撮影2012.3.25


奈良県大宇陀 迫間(はざま)覆い懸け民家

2013年11月10日 | 茅葺き屋根(同)奈良県

茅葺きの覆い懸け屋民家でも、最早朽ち果て廃居となって居る建物の多い中見事に手入れされた覆い懸け屋民家が2軒並び建って居た。

以前紹介した事の有る大宇陀、旧山岡家住宅(松源院)の直ぐ近く、県道を挟んだ高台に豪壮な大和棟が見える。

相当な上級農家だったのだろう??入り口脇には2階建て納屋と、その奥には白壁土蔵も見える。

屋敷は美しく手入れされ、この家への愛着ぶりが覗える。

その上手、石垣上には、此方も良く手入れされた入母屋と切り妻を持つ覆い懸け屋。

きりっと決まっていて、まるで現代建築の民家の様に見えたりもする。

つい最近まではこの2軒共に茅葺き民家だったろうに・・・・、もう少し早く来てたらなあ。

撮影2013.6.8


奈良県大宇陀 黒木の茅葺き民家(覆い懸け屋)

2013年11月09日 | 茅葺き屋根(同)奈良県

何かにつけてよく訪れる大宇陀、この谷沿い集落にも茅葺き民家が残って無いかと寄ってみた。

集落を見渡せる対面道路から見ると大和棟の覆い懸け屋根が色濃い。

立派な瓦箱棟を持ち擬似茅葺き屋根の様な作りの覆い懸け・・・・、遠目には一瞬茅葺き屋根だと見紛うほど。

この家の屋根も擬似茅葺き・・・・、しかし戸締めで静まり返って居た。

土日だけ賑やかな声がするのかも??。

こうした手入れの行き届いた覆い懸け屋が大部分を占める。

見事に石垣を積み上げ、花々が咲き乱れる屋敷に聳え立つ大和棟。

こちらにも擬似茅葺きの覆い懸け屋根・・・・、この集落独特の景観かも??。

この家は、もう温もりが消え去さってからだいぶ時間が経つようです。

ちょっと変わった意匠の覆い懸け屋根。

こんな意匠の屋根も・・・・

たとえ覆い懸け屋であってもこれだけ多く残っている集落も珍らしい。

撮影2013.6.8


三重県旧青山町床並 萬松寺阿弥陀如来石仏

2013年11月08日 | 石仏:三重

大洞石と言う、この地特有の柱状節理石に刻まれた阿弥陀石仏。

先日紹介、高尾集落より西へ一山、林道の峠を下り、前深瀬川沿いに軒を連ねる床並集落、萬松寺之境内に祀られて居る。

小高い斜面を拓いた狭い台地に建つ萬松寺、その境内脇に六角屋根を持つ覆い堂が有り、この阿弥陀石仏が有る。

大洞石は高さ約2m、幅約80cm、正面に大きく舟形光背を彫り沈め・・・・

中に像高85cmの来迎印を持つ、阿弥陀如来立像中肉彫りで刻み出している。

線彫り二重台座は力強い鎌倉形式を表しているが、体躯はことのほか細身、尊顔も温和で少し笑みを浮かべている。

元は山越え間道の路傍に有り、いつしか土中に没してしまった様ですが、山崩れで飛び出して来たと言う・・・・。

明治中期、ここへ移動中、落下事故が起き胸部で断裂してしまった。

像容から鎌倉末期之造立とされるが・・・、そんな古い時期にもこんな山中に人は居て、祈りがあったのだろうか??

撮影2012.3.7


伊賀市高尾 岩鼻(いわっぱな)地蔵

2013年11月07日 | 石仏:三重

伊賀市の最南端、旧青山町高尾の旧道脇に岩崖から切り取られ、今は忘れ去られた様に佇む地蔵さん。

何処も同じだろうが、平成の大合併と称した地方自治体の省略化で、この伊賀市も膨大な市域を有する市となり、市街地からは車で1時間も懸かるこの鄙びた辺境の地も伊賀市内となり面食らう。

木津川上流域の支流の一つ、前深瀬川の源流近くに軒を連ねる山間集落。

現在廃校となり高尾地区センターと名を変えた高尾小学校付近から対岸に渡り、川沿い山道を10分程も遡ればこんな景観に出逢う。

この道はその昔、県道が開通するまでの旧道、酷い難路だった様ですが・・・・、現在殆ど利用されず、この石仏より奥は廃道同然に成っています。

石仏は、この地「岩鼻(いわっぱな)」と呼ばれる川岸にせり出した岩盤の磨崖仏だったようです。

昭和の初め頃、岩盤は切り出され、磨崖の地蔵さんも切り離され、この地に留まり、今の姿で祀られた様です。

切り出された高さ約1m程の板石状花崗岩・・・舟形光背の中に像高約50cm程の定形地蔵を中肉彫りで刻み出す。

江戸時代中期の造立・・・・・ちょっと、したり顔で仄かに微笑む地蔵さん。

岩鼻の危険を避ける為に磨崖として彫り刻まれたのでしょうか・・・・・。

撮影2012.3.7


名張市神屋  地蔵磨崖仏/磨崖五輪塔

2013年11月06日 | 石仏:三重

前回紹介、広芝橋磨崖仏と同じく国津地区に有る磨崖の地蔵さん。

県道693号線を南下する事約5分、国津小学校を越え、「くにつふるさと館」前で右折、下り坂を下りきると県道694号、そのT字路右脇崖の粗い花崗岩に地蔵磨崖仏が刻まれています。

高さ3m足らずの垂直岩壁上部に高さ約60cmの舟形を彫り、中に像高50cm足らずの地蔵立像を刻み出す。

特徴の有る丸顔で錫杖・宝珠の定型地蔵、線彫り蓮弁の上に立つようですが、摩耗風化のため殆ど肉眼では見えません。

どうしたのか?尊顔正面の鼻先が欠けてちょっと泣きっ面・・・・・その像容から室町後期の造立だと考えられています。

一方左手下方の岩に方形を落とし、なかに併立する五輪塔の陽刻が有り、江戸初期、寛文八年(1668)銘が確認されて居る。

撮影2012.3.7


名張市奈垣  広芝橋の地蔵・阿弥陀磨崖仏(足痛地蔵)

2013年11月05日 | 石仏:三重

鄙びた山里、集落から集落へと伸びる旧道脇に有る磨崖仏。

名張市街地より南東に約5km強、青蓮寺湖と比奈地湖に挟まれた名張川の支流沿いに走る県道693号線、広芝橋で左折・・・・、

羽根~長瀬方面に伸びる旧道へ入って直ぐ、左手斜面裾に簡素な覆い屋を掛けられた磨崖仏が見える。

磨崖仏は二ヶ所に解れて刻まれており、向かって右側には阿弥陀と地蔵の双石仏。

左手岩には小さく江戸中期期以後の追刻だと思われる地蔵磨崖仏。

右手の双石仏は双頂部を持つ方形を彫り沈めた中、向かって右に阿弥陀立像、左に地蔵立像・・・

阿弥陀頭部背面には放射光背と「キリーク」が刻まれ、ともに像高約50cm程、地元では足痛地蔵と呼ばれ、今も信仰は続けられて居る様です。

地蔵と阿弥陀の壁面には慶長十七年(1612)九月二日の銘が有り、安土桃山時代の造立。

共に、この名張地域で目にする、個性の強いローカル色豊かな像容で、周りの景観と相まって、見るものを和ませてくれます。

撮影2012.3.7


三重県伊賀市 奥馬野(おくばの)

2013年11月04日 | 茅葺き屋根(同)三重県

 

このぐらい市街地より離れた山中なら、一軒や二軒の茅葺き屋根は残ってるだろうと出掛けてみた。

伊賀上野市街地より木津川上流域の一つ、「服部川」沿いに走るR163を遡る事約30分、更に旧大山田村と青山町を結ぶ県道2号線で馬野川を遡る事約5分、深い谷間に拓けた馬野に着く。

こんな山奥の鄙びた集落にも茅葺き屋根は残っていなかった、真新しく覆い懸けをしたように見える屋根も有り・・・・・遅きにしした感は否めない。

しかし、たとえ覆い懸け屋根にせよ、この景観は鄙びた山間集落ならではの佇まい。

こんな景観も、そう遠くない将来にはきっと見れなく成ってしまうに違い無い。

ここは伊賀山中のかくれ里・・・・覆い屋は懸けられても伊賀式箱棟が誇らしげに残っている。

撮影2013.5.5


兵庫県篠山市 武家屋敷群

2013年11月03日 | 街道街並集落 景観 

関西では「丹波篠山山鹿の猿が・・・」の囃子唄で知られる兵庫県篠山市、篠山城址脇に連なる武家屋敷群です。

篠山市街の中心、篠山城址西外濠から一筋挟んで南北に約400mに亘り、茅葺き武家屋敷を中心とした風情ある建物が達並んで居る。

南側通り入口から歩を進めると、茅葺き門とその奥に建つ茅葺き屋根の主屋に、ちょっとしたタイムスリップ感が味わえる。

<武家屋敷鈴木家>

慶長15年(1610)篠山城が完成と同時に、この武家屋敷群「御徒士町(おかちまち)」が形成され、その後江戸時代後期の天保元年(1830)の大火災により大部分が焼失、現在残って居るのはその後の建物だと言われています。

こちらは裏側jからの撮影・・・、見えない下屋は痛みが激しい。

隣家鈴木家と軒を連ねる佐藤家・・・・白壁土塀は間新しいのですが脇差ちょんまげ姿の武士が出てきても、そのまま納得出来そうな佇まいです。

一軒置いて隣の茅葺き屋根。

小じんまりとした入母屋造りながら、棟抑えの黒い千木がこの地の茅葺き屋根を象徴する。

道の向かい側には覆い懸け屋の被ったこんな武家屋敷も・・・・、ここはしっかり民家として住まわれて居るようでした。

通りの一番奥には史料館として解放されている安間家の茅葺き門と茅葺きの主屋。

豪壮さは有りませんが質実剛健さがそのまま感じ取れる様な佇まいです。

この日は月曜日で休館日、しょうが無いので門外からの撮影のみで辛抱しておきました。

撮影2013.10.21


名張市 旧道の地蔵磨崖仏

2013年11月02日 | 石仏:三重

名張市の今は通る人とて殆ど見かけない旧道脇の磨崖仏。

名張市街北部丘陵地の大部分は広大な新興団地に生まれ変わり、鄙びた山里風情はすっかり脇に追いやられたが・・・・・、忘れ去られたような旧道には思わぬ昔日の景観が隠れて居たりする。

桔梗が丘東端地域と名張カントリー倶楽部の狭間に比奈知方面へ抜ける旧街道が有り、その斜面から突き出した丸みの有る岩に石仏が刻まれて居る。

大凡似つかわしくもない、鉄製の簡素な覆い屋が邪魔をして見づらく成っていますが・・・しかしそれも地元の人達の信仰の証なのだからいたし方がない。

覆い屋内から真正面に見る磨崖仏、薫香のためだろうか??正面が黒く変色しています。

磨崖仏は約50cm舟形を彫り沈めた中に像高40cm、光背外線彫り蓮座に立つ定形地蔵立像を中肉彫りで刻み出す。

体躯が細く、華奢な感じは否めません。

多分、道中安全を祈る為の地蔵さんだったのでしょうか??

撮影2012.3.7