愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

伊賀市 中之瀬磨崖石仏

2006年02月21日 | 石仏:三重
道路脇の露出した花崗岩の崖の表面に中尊の阿弥陀如来、脇待の観音、勢至。 さらに左側に不動明王,右側には地蔵菩薩、その右手に月輪の中の梵字と、壁面一杯に使われていてにぎやかです。

伊賀市 中之瀬磨崖石仏

2006年02月21日 | 石仏:三重
伊賀上野から国道163号線で伊勢方面に向かう、名阪道の高架下をくぐるとやがて服部川の橋を渡り道路は大きく右にカーブする。 服部川沿いに走るとすぐ、左手にこの磨崖石仏が道路脇に見えてくる。 道路接近しすぎていて駐車スペースはありません。 右手側も服部川が道路脇ぎりぎりまでせまっています。

太安万侶墓

2006年02月20日 | 風物:陵墓
昭和54年1月18日農作業中に発見された墓誌によってここに眠るのが太安万侶で有ることが判明した。

太安万侶墓誌の発見により、それまで非実在説もあった太安万侶が実際に生存した人物であった事を証明したし、古記録の信憑性を一層高める事にもなった。

墓の底に木炭が敷き詰められ その上に墓誌の銅板が置いてあったので 太安万侶と限定できたのである。屍は火葬され、その後 改葬されていた。


太安万侶墓

2006年02月20日 | 風物:陵墓
奈良公園の東側の山並みの向こう、田原の里に行って来ました。

その第一番の目的はこの太安万侶墓に行くことであった。

太安万侶(おおのやすまろ、? - 723年8月15日(養老7年7月6日))は、奈良時代の文官。太安麻呂、太安萬侶とも。『古事記』や墓誌銘には「安万侶」とある。父は多品治とする説がある。

704年に従五位下に叙せられ、711年に正五位上に叙せられる。この年、711年(和銅4年)、元明天皇に稗田阿礼の誦習する『帝紀』『旧辞』を筆録して史書を編纂するよう命じられる。翌712年正月、天皇に『古事記』として献上する。715年には従四位下に叙せられ、翌年、氏長(うじのかみ。氏上。)となる。子孫の多人長によれば、『日本書紀』の編纂にも加わったという(『弘仁私記序』)。養老7年7月7日(墓誌では7月6日)に歿する。歿時の官位官職は、従四位下勲五等民部卿。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

場所は↓

http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.54.35.393N34.39.43.185&MT=%C6%E0%CE%C9%B8%A9%C6%E0%CE%C9%BB%D4%BA%A1%C0%A5%C4%AE&ZM=8

円成寺勧請縄

2006年02月19日 | 勧請縄:山の神:野神:人形道祖神

現在もう見ることの出来ない勧請縄。

一種独特な姿で僕の目を楽しませてくれたが、2012年を最後に材料確保の難しさや後継者不足により廃止。

国道24号線を京都から奈良へ車を走らせると、奈良坂を下り、大仏殿の大屋根が見えてくる辺りで、国道369号線にはいる。

この分岐点から約15分程度で、奈良市忍辱山町(にんにくせんちょう)に入る。

ここには忍辱山円成寺という古刹があって、運慶が20歳のころに造った国宝の大日如来が在ることでも有名な寺院です。

この古寺の結界に奇妙な姿の勧請縄が張られている。

勧請縄は、円成寺への結界、庭園への東側の入り口にかけられている。

約10mの縄に、常緑樹(榊か?椿?に似ていた)の小枝を左右に二対下げて、中央に写真のような藁細工をしつらえている。

円成寺庭園内に地元老夫婦の茶店があるので、休憩がてらにお茶にして、その店の主人にこの藁細工の意味を尋ねてみた。

話によると、五穀豊穣を願ってこの村の人が毎年1月15日ごろにかけるもので、藁細工は、陰と陽を表しており、男女の行為そのものであるという。

 

子孫繁栄、五穀豊穣、人間の原点がこの藁細工の意味だと・・・・。

なるほどそういえば丸い陰の輪の中を陽の藁房が貫いている。

妙にリアリティーの有る藁細工です。

でも何故、輪が3個なのか????。

 


伊賀市 北向き地蔵

2006年02月18日 | 石仏:三重
木立の中でちょくせつに光が差し込むこともなく、おまけに名前の通り北向きに立っているので、撮影が思ったようにはいきません。 自然石の花崗岩、幅、約3m・高さ、約1.5mの中央辺りに1.5mX70cmの彫りくぼみを作り、地蔵三体を厚肉彫りにしている。

伊賀市 北向き地蔵

2006年02月18日 | 石仏:三重
名阪、中瀬インターで下道に出ると、国道163号線、伊勢方面に車を進めるとすぐに橋を渡る。 渡りきると、国道は大きくみぎにカーブするが、橋から直進するわき道を進むと右手の山懐におてらの屋根がみえる。 毘沙門寺という古寺で僕が訪れた土曜日には、参拝者の車が何台か駐車していた。 この磨崖石仏は毘沙門寺の境内なわき道を奥のほうに10分ほど歩けば出会える。

伊賀市 岩根の磨崖石仏

2006年02月16日 | 石仏:三重
枠外には、五輪塔の浮き彫りにし、死者への供養の意も込められている。 鎌倉後期、徳治第一年月日(1306年)願主沙彌六阿彌の刻銘があ 岩盤には臍穴が彫られていて、覆い屋根の附けられていたことが伺われる。 立ち去り難い、心に残る石仏でした。