兎に角すごい石仏の数でどれからどのように紹介して良いのやら・・・・・・。
<白滝山から見た「しまなみ海道」尾道方面>
ここ因島は本四連絡橋の「しまなみ海道」が貫き、尾道市と成って陸続きのように成っているが古くは村上水軍の島、瀬戸内の砦として知られ、歴史・観光の島として注目されている。
その因島北IC近くの白滝山は村上水軍の将、村上吉充によって、15世紀のはじめ観音堂が建立された風光明媚な古代岩座霊場。
この頂上付近一帯に約七百体奇妙奇天烈な石仏が瀬戸内の海を眺めるように置かれ佇んでいる。
駐車場から急な石段参道を15分も登ると狭い境内・・・・・石仏が並び、眼下には海と島のパノラマが展開しています。
その奥にはまるで石仏の展示場よろしく、おびただしい石仏の羅列。
この地に立つ多くの石仏達は江戸時代後期の文政年間(1818~1830)、近く重井町に生まれた新興宗教「一観教」の教祖「柏原伝六(一観)」の意思により尾道の石工達が刻んだものだと言われて居る。
「一観教」は神道・仏教・キリスト教・儒教を一つに融合した新興宗教・・・・、彗星の如く表れわずか10年足らずでその姿を消し、この地に居並ぶ多くの石仏たちだがその生き証人として残された。
前列中央には両翼に沢山の石仏を従えた大きい丸掘りの「釈迦三尊像」が高くそびえていました
その裏側には羅漢石仏が居並んでいます。
五百羅漢小石仏の居並ぶ参道奥には「三大師座像(達磨大師・弘法大師・道元承陽大師)」その背後の基壇には「一観教」教祖、柏原伝六と妻の像と書かれていた石仏・・・・、なぜか右側が一つ空席のまま残されています。
キリスト教まで融合した「一観教」は藩からキリシタンの疑い掛けられ、教祖は投獄、翌年には獄中で不慮の死を遂げる。
居並ぶ石仏目の前にして石仏たちの哀しい物語を知らされると、一つ一つの石仏の事など語るべくもない気がする。
ただ物言わぬ石仏が瀬戸内の海を見下ろしている姿は印象的な景観です。
撮影2012.12.2