愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

平重衡卿之墓

2006年02月10日 | 風物:陵墓
ここも又悲劇の舞台・・・。

当時28歳の平家の若武者は南都衆徒の手によって、木津川にて処刑された。

木津川は、今も安福寺のすぐ裏をながれている。

安福寺では今も供養がつ続けられており、本三位中将平重衡卿 八百弐拾回忌 追善増長菩提と盆供養と書かれた塔婆が置かれていた。

今年は八百二十一回忌、6月23日には真新しい塔婆に変わる。


平重衡卿之墓

2006年02月10日 | 風物:陵墓
1184年の一ノ谷の戦いで源範頼・義経軍に惨敗。
自害しようとしたところを取り押さえられて捕虜となる。
鎌倉に送られた後は源頼朝の厚遇を受けるが、大仏焼き討ちを深く恨む南都勢力による再三の引渡し要求によって、翌1185年6月23日に南都に送られ、程なく木津河畔にて斬首処刑され、奈良坂に梟首された。

この安福寺は、平重衡の菩提を弔うために建立されたと伝えられ、この本堂を哀堂(あわれどう、)と言われている。

又本尊の阿弥陀仏は、重衡の引導仏だと言われている。

平重衡卿之墓と称されているのは鎌倉時代の十三重石塔で墓石ではない。

墓と言うものではなく供養塔として造立されたか、もしくはどこかにあった塔を供養塔として利用したのかもしれない。






平重衡卿之墓

2006年02月10日 | 風物:陵墓
治承4年(1180年)12月、父・清盛の命により、反平家の拠点の南都東大寺・興福寺を焼き討ちする。その際に重衡軍の放った火が延焼し東大寺大仏が焼け落ちたため、激しい世論の非難を浴びる.

重衡23歳、平家の若武者・・・。

寿永二年(1183年)平家都落ちの後も、備中国水島の合戦で足利義清・海野幸広を、同室山の合戦で再び行家をそれぞれ撃破するなど、衰亡する平家方勢力の中心武将として活躍した。

安福寺の山門前には平重衡卿之墓と刻まれた石碑が建っている。

平重衡卿之墓

2006年02月10日 | 風物:陵墓
国道24号線を南下すると、木津川を泉大橋が越えている。

この橋を越えてすぐに左手のわき道を下って左折、JRの跨線橋の下をくぐると安福寺という小さなお寺が左手にある。

安福寺は平重衡の供養塔が建っていることで有名です。

平重衡(しげひら)保元2年(1157年) - 文治元年6月23日(1185年7月21日))は、平安時代末期の武将。平清盛の五男。母は平時子。尾張守、左中将、三位中将とある。