退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「ゆるむこと」について

2012-11-16 03:03:49 | Weblog
晴れ。寒さは緩む。

高護「歌謡曲」を読む。

これまでに歌謡曲関連の本はそこそこ読んでいるので
「岩波新書」に不安を感じながら出来を確認してみたところ。

残念ながら今ひとつな結果。
年代が行ったり来たりするのもやや煩雑。

コード進行と楽器編成、演奏メンバーにこだわっているのはわかるものの
おそらくは著者の思いほど読者に伝わるものが少ないかも。

引き続き木田元対談集「哲学を話そう」を読む。

ハイデガー「存在と時間」に関する新しい読み方を知る。
同書が実は「始まり」にすぎず肝心なところは書かれず終わったと。

人間的にはかなり「嫌なヤツ」らしいが
それでも西洋哲学史を従来とは異なる形で構想していたところがスゴイ模様。

作品をもう少し読んで詳細を確かめたい気持ちにさせる魅力あり。
今から12年前に出ている対談集なので現在はどうなっているのか気になる。

ところで。

このところ図書館から借りてくる本のリストがちょいと「ユルい」か。
もう少し体系立てて「歯ごたえのあるもの」を多めにした方がいいかもしれない。

というか「見立て」がいい加減になっているようなので
もっとじっくり選ぶことにしよう。

木田元が相当な山田風太郎好きだということも初めて知ったので
あらためてあれこれ読み直してみるべきか。

特に「明治物」の魅力については
今の年齢でもう一度確認するのも楽しそう。

いささか「視野」が狭くなっている気配もあり
さらに積極的に魅力あるものに触れることにしよう。
コメント

「出会い」について

2012-11-15 02:50:11 | Weblog
くもりときどき雨。冷える。

寺脇研「ロマンポルノの時代」を読む。

日活あるいはにっかつロマンポルノが
自らの「青春」であり新しい映画の息吹きであったことを描いた作品。

著者とはひと回りほど違い実際に観た作品の数も少ないので
「そういう時代もあったのか」というのが正直なところ。

それでも白川和子、片桐夕子、絵沢萌子、田中真理、宮下順子、伊佐山ひろ子、
谷ナオミ、芹明香、東てる美、泉じゅん、山口美也子、野平ゆき、小川亜佐美、

鹿沼えり、竹田かほり、亜湖、麻吹淳子、江崎和代、風間舞子、三崎奈美、
水木薫、風祭ゆき、寺島まゆみ、朝比奈順子、美保純、沢田和美、浅見美那、

倉吉朝子、岡本かおり、高倉美貴、小田かおる、山本奈津子
最後に志水季里子の名前と顔は何とか思い出せる。

当時はなぜか小学校の通学路にポスターが貼ってあったり
後に「ロードショー」という雑誌でスチール付きの紹介記事を読んでいたりしたせいだろう。

著者は敢えて「脚本家と男優」も紹介しているので
彼ら彼女らにとってロマンポルノが「現場」であったことを忘れずに。

おそらく「マニア」でない人には
思いがけない名前が出てくるはずなので乞うご期待。

引き続き三浦展「妻と別れたい男たち」を読む。

グラフの多用といささかユルい解説が気になるものの
要は「男性原理主義社会」をやめて「お気楽に助け合って暮らそう」という趣旨。

ちなみに「男性原理主義」とは性別を問わず
「やたら忙しく働いて利益を上げる人々」が高評価される社会のこと。

「離婚する男性」の主な傾向として
「年収300万円以下」「高卒以下」「自由業、自営業」「勢いで結婚した」などが挙げられていて。

趣旨には賛同してもいいけれど「ホンマかいな」と思うところもある。
「現実」は案外そんなところなのかもしれないが。

「出会いは別れの始まり」というのは使い古された文句。
ただし「出会わなければ別れることもできない」という「事実」も覚えておきたい。
コメント

「読み書き」について

2012-11-14 03:39:33 | Weblog
晴れのちくもりときどき雨。傘はなしですむ。

「メディアとプロパガンダ」読了。

「生成文法」の著者はさすがに「文脈をたどる技術」には長けている模様。
メディア・リテラシーの「基本」として受け止めたいもの。

オリジナルは20年以上前のものだけれど
そこで指摘されていることがいまだに当てはまるのだからイヤになる。

さて。

「読み書きそろばん」というのがかつてのわが国の「最低限」であったとして
どうやらその維持は難しいかもしれない。

個人的には「活字中毒」なので
「活字がキライ」という人々がなぜそうなったのかが逆に気になるところ。

おそらくはほぼすべての活字が「お経」であったのだろうとは思うものの
そこに「好奇心」があれば意味を知りたくなるはずなのだが。

このいい加減な推測が正しいとすると
どこかで「好奇心」が「殺された」のだということになる。

あるいは他の何事かに気をとられすぎて
それどころではないといった状況が続いたのか。

もしくは「活字」によってもたらされるものが
すべて「負担」にしか感じられないものだったのだろうか。

たいていの「情報」は「活字」を通してやってくるのだから
よくも悪くもその「意味」を知らねば始まらない。

そこでいろんなものに出会って
納得したり憤慨したり信じたり裏切られたりする「世界」が現れるのに。

いたずらに感情的に噴き上がりやすいのは
自らの思いを「思い通りに」言葉にできないからということも考えられる。

とりあえずその「土俵」に乗らないとどうしようもないとはいえ
気付いてみればその「場所」が異様に貧しかったりするのが微妙。

それでもその中で生きるしかない「事実」を
あらためてきちんと受け止めるしかない。

もちろん「言葉にならないもの」があることも重々承知の上で。
コメント

「ヘソ曲り」について

2012-11-13 02:27:13 | Weblog
晴れ。心地よい。

昨日一昨日と寝てしまう。
お気楽極楽ですまん。

チョムスキー「メディアとプロパガンダ」を途中まで読む。

著者が一貫して指摘し続けているのは「アメリカの悪」。
自分が汚している手には決して触れようとしない事実。

たとえばそれは中南米その他の国々に対する過剰な「干渉」と「陰謀」であり
イスラエルに対する「保護」であったりする。

ここでもあらためて明らかになるのは
「人は自分に都合のいいことしか見ない」ということ。

「嘘も繰り返せば『真実』になる」ことも。
わが国における「原発安全神話」を思い出してもいいだろう。

人々の不安に付け込んで「敵」を見つけさせ
そのカタルシスによって「数の力」に物を言わせる手段の怖ろしさよ。

「正義」をあまりにも堂々と謳う人々については眉唾でないと。
いやいっそ「正義は毒」だと思うくらいがよさそう。

そうした「バランス感覚」を「常識」にできればいいけれど
経済が不調になればなるほど「バランス」を維持するのも難しくなる。

身の回りの「どうしようもない不調」を
人はついつい「敵を作ること」で解消しようとするのは時代を問わないので。

「安きに流れる」のは「人の常」だと知りつつ
そこで曲げられる「ヘソ」を持っていたいものではある。

「無根拠な自信」はむしろ
そうした時に発揮されるのが望ましいのだ、と言っておく。
コメント

繰り返される「現在」とそれを作る「ルール」について

2012-11-10 02:57:23 | Weblog
晴れ。少し冷える。

松山巌「乱歩と東京 1920 都市の貌」を読む。

建築家である著者が少年の日の思い出を背景に
江戸川乱歩作品の中に「都市化」を読む内容。

五感・経済・性・写真・路地・屍体などを採り上げ
「エログロナンセンス」の「内実」に迫っている。

大正時代にすでに「現在」があることが十分に納得できるのを再確認。
「地元で生きて行けない若者たち」が「都会」に出るのは「時空を超えた定石」。

また「就職できない若者」がブラブラするのも同様に。
名探偵明智小五郎がそのひとりであったことは知っておいてもいいだろう。

引き続き永江朗「批評の事情」を読む。

90年代にデビューしたさまざまな「批評家」についてのあれこれ。
知らない人も多少いるものの「現役」である人も少なからず。

オリジナルは今から11年前に出ているので
「一時代前」という印象がなくもないけれど。

とはいえラインナップされているメンバーの選択は的確で
一通りの「様子」がわかるようになっている。

タイトルは戦後トニー谷が作った流行語「家庭の事情」から。
ただし「家庭の事情」が「ギャグ」であったことを知っているのはある程度の年齢以上の人。

今ではそれが「普通の言葉」になっているのが面白いところ。
とりあえず「さいざんすマンボ」を挙げておく。

さて。

「存在が意識を規定する」というのはマルクスの言葉だが
その「存在」が「流行」に規定されることの方がむしろ重要なのではないか。

さらに「流行」は「経済」の影響も大いに受けていて
人々の「意識」は常にさまよいつつ「一定の形」におさまる模様。
コメント

「異なる視点=毒であること」について

2012-11-08 02:53:21 | Weblog
晴れときどきくもり。過ごしやすい。

山本夏彦「毒言独語」を再読。

今から三十年余り前の文庫で初出はさらに前でもある文章。
さすがにいささか古さを感じなくもないところもある。

逆に当時の著者の「若さ」に気付くようになった。
それは取りも直さず「今の自分」を思わせるところも。

もっともこちらには著者ほどの「芸」はなく
いたずらに嘆くことが多いのみ。

それとは別に現代に通用する指摘もあれこれ。
時は過ぎるが「変わらないこと」は常にあることを肝に銘じよう。

覚えておきたいのは「分際」。
そのあたりはむしろ「封建主義」の方が幸せか。

他人を見ることからあらゆる欲望が生まれるのは「事実」。
ただしその「視点」が果たしてどうなのかという疑問は持っていい。

自分に都合のいい「材料」のみを採り上げて
いたずらに「正しさ」を訴える「貧しさ」についても同様に。

「他人に迎合しない」ですむ立ち位置を確保しつつ
「好きなこと」に熱中する姿こそ好ましい。

たとえばあらゆる「宣言」がなぜ行われるのかと言えば
そこに謳われていることが「現実」になっていないから。

人は「理想」に夢中になると
「現実」を無視して「都合のいい現実」を見出したりするのでご用心。

もちろん自省を込めた上での話だが
それでも人はそのように生きたりする厄介な存在ではある。
コメント

「見ることあるいは見えること」について

2012-11-07 03:23:15 | Weblog
雨のち晴れ。おだやか。

山本七平「小林秀雄の流儀」を読む。

「『空気』の研究」でお馴染みの著者が
なぜ小林秀雄は『空気』と関係なく生きられたかを「なぞった」内容。

バカバカしいほど単純化してしまえば「『熟読』と『真摯』の徹底」。
「わかった」という「抽象化」に身を任せないことか。

何かを見てしまった者はそこから離れられない。
たとえ「わかったつもり」になりたくてもそれが出来なくなるらしい。

もっともそれを「定式化」してしまえば
受験勉強における「傾向と対策」になるのみ。

現在(抽象)の視点から過去(事実)を断罪する愚についてもあれこれ。
たとえば武田泰淳「ひかりごけ」を思い出せばいいかもしれない。

圧倒的に奇怪な事実を前にした時
それを否定することなく笑えるくらいの反応ができればまだマシ。

醒めもせず狂いもせずに事実を見るという「常識」に立てと言うのは簡単だが
文字通り「行うは難し」。

「悪貨が良貨を駆逐する」のも世の常で
いたずらにそのことを言い立てても何も始まらない。

というより何かに「魅入られた者」は
脇目もふらずにそこに執着するのがむしろ「自然」。

果たしてそれほどのものに出会えるのかどうかはそれぞれの「歴史」次第。
材料が何であれそこには「爽快感」が生まれる。

好きこそものの上手なれ。

その言葉の「残酷さ」を知ると
おそらく人は安易に「好き」という言葉を発せられなくなるのだと思うが如何。

ただし「好き」という言葉はあくまで言葉らしく
あいまいな多くのものを含んで日常に使われ続ける。
コメント

「今どきの若者」について

2012-11-06 03:04:01 | Weblog
晴れ。シャツの上にコート。

このところ身体が疲れているようでちょいとご無沙汰。
いつもながらの気分次第でもある。

昨日はボウリングの後で飲み会。
結果は190と149で運動神経の鈍い若者たちに勝る。

平成になってはや24年だけれど
彼らにはまだまだ「昭和の匂い」が濃厚。

いわゆる「ホモソーシャルな男子」が案外多いのに驚く。
「未知のもの」に出会うことより「仲間内の共感」を重視している模様。

自分が受け入れられないと思った時に
彼らは「ひきこもり」になったよう。

個人的にはそうした時に女子に救われたりしたのだけれど。
残念ながら「幸運」に見放されたのか。

一方女子はと言えば
いたずらに神経の細いところがまるで男子のようで。

両者に共通するのは「完璧な私」でありたいことか。
要は「テストで減点されたくない」といった趣き。

こちらからして不思議なのは
そもそも自分が相当「減点対象」ではないのかということ。

話せば「理屈」としてはわかると言うものの
たぶん「身体」は裏切っている印象。

いちおうその「根底にあるもの」を探ろうとしたのだが
あまりの「自明性」ゆえか「説明責任」は果たしてもらえないまま。

「歴史」について多少なりとも述べておいた。
如何せん彼ら彼女らの「若さ」ゆえ「理解」には至らず。

もっとも彼ら彼女らがそれぞれに楽しく暮らすことを祈る気持ちに変わりはなく。
「余計なお世話」を勝手にするのみ。

少なくとも楽しく飲める相手でいることができる限り
「お誘い」には乗るのでよろしく。

「飲めば都」という基本方針は全く揺るがない。
ただ「正気でいられる」とついつい「正しいこと」を言ってしまうのが玉にキズか。

「だってそうなんだもの」とよそ見しながら言っておく。
繰り返す波のように関係各位には今後ともよろしく。

少なくとも「深くて暗い川がある」ことだけはよくわかった。
その上での「お付き合い」が好ましい。

まあ、何事かを一緒にすれば
それぞれに「わかり合える」つもりになれることもあることは知っておいていいだろう。
コメント

「世界が広いから好奇心が募ること」について

2012-11-02 03:29:10 | Weblog
晴れ。やや冷える。

「鷗外随筆集」を途中まで読む。

和漢洋に通じた軍医の醸し出すユーモアは硬質で
あまりに硬すぎてそれがそうだと気付きにくいもののよう。

基本的に言っていることは「正論」だが
時代を問わず通じにくいのは相変わらず。

長谷川辰之助(二葉亭四迷)や漱石に対する評価は
「通じ合う者同士」のそれを思わせる。

今は「右顧左眄=うこさべん(右を見たり左を見たりして迷うこと)」が普通だけれど
漱石が「簡単」を「単簡」と書いたように「左顧右眄」と書いていたり。

ちなみに「もりおうがい」と打つと「森鴎外」と出る。
「森鷗外」に親しんできた身としては違和感を覚え何故そうなっているのか謎。

「擬古文」で「昔の言葉」を敢えて違う意味で使って「新しくする」と言っていて
「死語の再生」を図っているのも興味深いところ。

「小説家」として世間に名が知れたせいで
「二束の草鞋」を履く者として「軍医」としての技量を疑われる「不本意」もありつつ。

現代人には読みにくいことも間違いないとはいえ
その程度の「教養」はあった方が物事が楽しくなるのも確か。

もちろん歯が立たないところもあるけれど
そのことはむしろ「自らの未熟」を忘れさせないための「杭」として受け止めればいいだろう。

あれこれ知ることは本来素直に「楽しい」こと。
いたずらに「完璧」を見て好奇心を殺すのはつまらない「ゲーム感覚」だとしよう。

繰り返すがわれわれの知っていることなどたかが知れている。

ならば好奇心の赴くままに動いて
さらに「新しい世界」を知る楽しさを持っていたいものではある。
コメント

「青春と無自覚」について

2012-11-01 02:30:36 | Weblog
晴れ。おだやか。

久方ぶりの日曜以外の休日。
やはりのんびりするのはいい。

島田裕巳「私の宗教入門」を読む。

大学の講義で「イニシエーション=通過儀礼」という言葉に惹かれ
やがて「ヤマギシ会」に入れ込み「卒業」する事情が描かれている。

人が「成長」するためには何事かに「夢中」になる時期が必要で
そうした経験によって「背骨」が出来ることはおそらく間違いない。

もっとも「安保闘争」が終わって「革命」が失われた後で
「世界」でなく「自分」を変えることに向かった「歴史」は伺えなくもなく。

個人的にはある種の「青春」として非常に理解しやすいのだけれど
現代の若者たちにはどう映るのか聞いてみたいところではある。

喫茶店で読み終えて帰宅後
これまた久方ぶりにマル激をじっくり観る。

「遠隔操作メール事件」のポイントは警察のIT技術の強化などではなく
「代用監獄」「自白偏重」などの従来の捜査手法が抱える問題であると。

またその捜査結果を何のチェックもなく認める裁判所は何をしているのかとも。
いずれも「まともな国民」なら関わりたくない相手。

一方「電通」はテレビ局を中心とするクライアントにしか向き合っていないので
われわれ消費者とは無関係に請け負った仕事をするだけらしい。

むしろ妙な「価値観」など持ったら仕事が減るだけで
その「宣伝効果」がもたらすものについては全く無自覚でもあるよう。

たとえば原発の「安全神話」や「コストの安さ」や「電力需給」などについて
さまざまなウソが「自明」だとされたにもかかわらず。

さらには組織が巨大になりすぎたせいで
「一部の失敗」は何の反省ももたらさないことになっているとのこと。

それにしてもいずれの「デタラメ」も平気で野放しにしている「民度」よ。
いたずらに「敵」を見出して束の間の「カタルシス」を味わっている場合ではなかろう。

ところで「未来」はどこにあるのか。
いや「ある」のではなく「つくる」しかない。
コメント