退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「見せびらかすことの意味と謎解きの限界もしくは『好きになる才能』が限られたものであること」について

2018-07-20 02:43:20 | Weblog
晴れ。熱風が吹き寄せる。

ソースタイン・ヴェブレン「有閑階級の理論」を読む。

すらすらと読み進められるものの「キック」はないまま終わる。
「他人に見せびらかしたい気持ち」は「自らの卑小ぶり」を示すのみ。

例えば宝石を身に付けたい人々は「自分がくすんでいるから」。
残念ながらその「事実」は味気なく残酷。

現在はといえばかつては「有閑階級」がやっていたことを
IT技術の発達でそれ以外の階級がやっているだけ。

要は「ウンコまみれ」とでも言えばいいのか。
「恍惚の人」がその種のことをしてしまうのを忘れずに。

どうでもいい「承認欲求」など放っておけばいいのに。
かくしてさらに「世はジャングル」になる。

深夜NHKで「進撃の巨人season2 覚醒の咆哮」(’18)を観る。

ようやく「謎解き」が始まったのだからそれなりに「観られる」内容。
知り合いによると原作のマンガは「別な話」になっているらしい。

「謎解き」が終わってしまえば「物語」は続けられなくなる必然。
とりわけマンガでは「よくあること」ではある。

だから「謎解き」という形式はつまらない。
そのことに気付くかどうかはまた別の話。

理に落ちてしまえば納得はするもののそれ以上の「感興」は得ようもなく。
いつまでも心に残ることとの「違い」を思い出そう。

もちろん「よく考えられたトリック」があることは悪くない。
ただしその「出来栄え」を競うだけではやがて「ジリ貧」になり。

横溝正史の作品が面白いのは実は「家族関係のあれこれ」だったり。
「村もしくは閉じられた共同体の異様なルール」が醸し出す「雰囲気」よ。

「こうでなければならない」という気持ちが「犯罪」に。
「現実否定」ならもっと楽しくすればという方向もあるのだけれど。

いずれにせよ。

「他人を否定しなければ成立しないようなもの」が「物騒」であることは確か。
好きに生きればいいのにと思う一方そうできない人々がいるのも了解しつつ。

これまた残念ながら「好きという才能」は誰にでもあるものではなく。
うまく「釣り合い」が取れれば幸い。
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