退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「メディアスポーツあるいは部活」について

2016-10-11 02:46:29 | Weblog
晴れ。夏に脱いで以降初めて上着を着る。

森田浩之「メディアスポーツ解体 <見えない権力>をあぶり出す」を読む。

「メディアスポーツ」とは「メディアによって伝えられるスポーツ」のこと。
「当然のことじゃないか」と思う向きも多かろう。

ただし「中継」のために「ルールの変更」が行われる事実がある。
「放送権」によって莫大な金が動くことも同様に。

「国民意識」や「物語」、「女性のイメージ」を操るものでもあり
外国人に対する「ステレオタイプ」を広めるものだったりもするとなると。

例えばわが国では元々新聞の売り上げ拡大のために始まった「高校野球大会」が
「奇妙な純粋さ」を維持しながら「物語」として通用していることなど。

「チームワーク」「ひたむきさ」「ケガからの復活」「どんでん返し」といったものが
個々の選手たちのさまざまな背景を材料に描かれたり。

もはやそれらは「優れた身体能力を競うもの」ではなく「安いドラマ」。
それを広範囲に送り届けるのが「メディア」の役割らしい。

その一方。

教師生徒ともに大きな負担になっている「部活」が廃止されない謎も。
スポーツを楽しむためだけなら「地元のクラブ」でいいはずなのに。

そこに欠けているのは「ヘタだけど楽しい」という視点。
「全国大会出場」をウリにする学校の「宣伝効果」のせいもあるのか。

おまけに休日返上で練習や試合があることも。
学校そのものが休みなのに部活があるという意味がよくわからない。

もちろん「優れた能力の持ち主」がそうすることは構わないとして
そうした子どもたちの数は決して多くはないのだから。

その種の「現実」が「異常」だと見なされないのは
「異常」を「普通」に経験してきた大人が多いからだろう。

ただでさえ「習い事」に追われていたりする毎日の中で
「時間」と「体力」を奪われる子どもたちはひたすら疲れるしかないというのに。

経済的観点からすると「圧倒的な生産性の低さ」の理由がこんなところに。
「仕事以外に何もできない生活」を「普通」だと考えてしまう「過労死体質」もいい加減にしないと。

この「貧しさ」をどうにかしなければ「未来」などないと思った方がよさそう。
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