退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

読経と「上書き」について

2011-01-12 02:30:58 | Weblog
晴れ。寒さはなぜかあまり感じない。

岸田秀「『哀しみ』という感情」を読む(再読か)。

著者もいつのまにかもうすぐ米寿。
いつもと同じように自分の年齢を忘れているので少しだけ驚く。

「アメリカを軽蔑し憎悪する誇大妄想的な『内的自己』」と
「アメリカを崇拝し屈従する被害妄想的な『外的自己』」との「分裂」の話はいつも通り。

本作ではそれが何度も繰り返されまるで「お経」のように。
僧侶の読むそれと違って意味は明確にわかるけれど。

深夜久方ぶりの友人と話す。

相変わらずの様子で結構。
「長生きしない方がいい」という点で意見の一致をみる。

もちろん「寿命」は思い通りになる代物ではなく
「帯に短し襷に長し」というのが「普通」だとは思いつつ。

おそらくふたりに共通するのは
「自分のことで迷惑をかけたくない」ということだろう。

ただし裏返せばそれは
「迷惑をかけられる他人がいない」ということでもあったりするのか。

必要以上にその種のことを思うのはおそらく「過去の呪縛」で
「上書き」されれば消えるものでもあるのだが。

ただしその「上書き」は
思った以上にうまくいかなっかたりすることも少なくない。

おそらくこの「病気」とは
長く根気よく付き合うしかないはず。
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