退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「忘れ去られる『当然』」について

2015-01-19 02:06:45 | Weblog
晴れ。冷えはそこそこ。

教育関係の本は読んだものの
これといって採り上げるほどのこともないかと思ったり。

教師という存在が「外部」から評価を受けるのを嫌がる存在だということを知る。
まあほぼ「意味不明」なわけだが。

相変わらず「お前だけはなるな」というタイプがなりたがる職業ではある。
もっともどの職業であろうと「向いてないかも」くらいが適当で。

職人を思えばどこにも「完成」や「終わり」はない。
その「当然」を思わない者は実は「なってはいけない」。

案外「ルール」はシンプルだったりする。

もっともそれを「当然」とするためには「上を向いて」いなければならず。
「下を向いて」あれよりはマシなどと思う「貧しさ」とは無縁でなければ。

とにかく「どうでもいい自分」を前に出す輩はめんどくさいのみ。
てめえの「恨みつらみ」を他人で晴らそうとするのは「ダメな母親」同様。

さて。

「こぎれいな街」には人が集まらず猥雑な風景に人は集まる。
この単純な事実はどれほど受け入れられているのだろう。

入り組んだ道の方がまっすぐな道より面白い。
たとえばそんな単純なことがいとも簡単に忘れ去られるのはなぜか。

その一方。

NHKスペシャルでは「耐震強化」を謳っていたが
映画「タワーリング・インフェルノ」でスティーヴ・マックイーンは言っていた。

「消防が対応できない高層ビルを建てるな」。

なぜその種の「当然」が普通のこととして行われないのだろう。
「建てなければ倒れることもない」というのは圧倒的に「正しいこと」なのに。
コメント
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