晴れ。冷えはやや緩む。
山口文憲「団塊ひとりぼっち」を途中まで読む。
「団塊の世代」というのは当時通産官僚だった堺屋太一の造語で
広く言えば1947年(昭和二十二年)から1951年(昭和二十六年)までに生まれた人々のこと。
現在61歳から65歳になっている人々の中から
「代表的な有名人」を採り上げてある種の「傾向」を描いている模様。
今どきの若者からすると信じられないかもしれないけれど
当時は多くの人々が「同じ基準」を元にしてあれこれ動いていたことを知ろう。
とりわけ中心的な考えは「世の中を変えよう」というもの。
「公的」には親の世代に反発しながら「私的」には一昔前のあれこれがありふれていた模様。
荒井由実が作ってバンバンが歌った「いちご白書をもう一度」の歌詞が
ひょっとしたら彼ら彼女らに対する「否定的な評価」をもたらしたのか。
もちろん「世代」などという大雑把な括りで個人は判断できない。
とはいえそこに何らかの「共通点」を見てしまうのもよくあることで。
数が多いからこそ「生存競争」にシビアだったのだとすれば
最近では嫌う人も少なくない中国と同じだったり。
仮に彼ら彼女らの姿に「嫌悪感」を覚えるのだとしたら
まさに「もって他山の石」とする方が生産的かもしれない。
要は世代を問わずそうしたものがあり
誰もが何らかの「枠組み」に従って考え行動しているはずだということ。
そして特定の好ましい個人たちは
その「枠組み」と離れた場所で生きていたりするということ。
ならば好ましいからこそ
むしろ特定の個人に注目していればいい。
同じ「共感」を元にするなら「否定」よりは「肯定」を。
ただし他人を否定する「快感」はどうやら生半なことでは捨てきれないものでもある。
山口文憲「団塊ひとりぼっち」を途中まで読む。
「団塊の世代」というのは当時通産官僚だった堺屋太一の造語で
広く言えば1947年(昭和二十二年)から1951年(昭和二十六年)までに生まれた人々のこと。
現在61歳から65歳になっている人々の中から
「代表的な有名人」を採り上げてある種の「傾向」を描いている模様。
今どきの若者からすると信じられないかもしれないけれど
当時は多くの人々が「同じ基準」を元にしてあれこれ動いていたことを知ろう。
とりわけ中心的な考えは「世の中を変えよう」というもの。
「公的」には親の世代に反発しながら「私的」には一昔前のあれこれがありふれていた模様。
荒井由実が作ってバンバンが歌った「いちご白書をもう一度」の歌詞が
ひょっとしたら彼ら彼女らに対する「否定的な評価」をもたらしたのか。
もちろん「世代」などという大雑把な括りで個人は判断できない。
とはいえそこに何らかの「共通点」を見てしまうのもよくあることで。
数が多いからこそ「生存競争」にシビアだったのだとすれば
最近では嫌う人も少なくない中国と同じだったり。
仮に彼ら彼女らの姿に「嫌悪感」を覚えるのだとしたら
まさに「もって他山の石」とする方が生産的かもしれない。
要は世代を問わずそうしたものがあり
誰もが何らかの「枠組み」に従って考え行動しているはずだということ。
そして特定の好ましい個人たちは
その「枠組み」と離れた場所で生きていたりするということ。
ならば好ましいからこそ
むしろ特定の個人に注目していればいい。
同じ「共感」を元にするなら「否定」よりは「肯定」を。
ただし他人を否定する「快感」はどうやら生半なことでは捨てきれないものでもある。