退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

それぞれに「必要な手順」について

2011-01-11 02:56:17 | Weblog
晴れ。冬らしい寒さ。

山田ズーニー「理解という名の愛がほしい」を読む。

この種の「敏感な人」はたいてい「イタイ」まま終わるのが普通だけれど
著者は何か「底力」がある模様。

ただの「いい人」でないあたりがなかなか。
「骨太な真剣さ」とでも言ったらいいのか。

少なからず「息苦しさ=生き苦しさ」は伝わるので
そのあたりを「共有」したい人々の賛同を得るのだろう。

「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」というのがバレーにおける回転レシーブの極意。
どうやらそれをしまくっている「誠実さ」がポイント。

さて。

「自分探し」という言葉は実は根本的な矛盾を含んでいる。
その「自分」がどういう存在であろうと「自分は自分でしかない」のが事実。

似合う衣装を探し続けたとしてもキリがない。
細胞は日々死んでは生まれ変わるものだし。

その時その時をとりあえず懸命に。
学校のテストのように「正解」を探しても仕方のないこと。

「自然体」はそもそも呆れるほど繰り返される作業によって生まれるもの。
最初からそれを求めるのは虫がよすぎるし単純に無理。

心についてだけ「筋トレ」をしないで平気なのは
「買い物」のように気に入るものがすぐに手に入る毎日に慣れすぎているせい。
コメント
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