まちかど逍遥

私ぷにょがまちなかで遭遇したモノや考えたコトなどを綴ります。

孫文記念館(移情閣)

2020-06-10 22:09:50 | 建物・まちなみ
2019年の舞子の続き。

旧武藤山治邸の窓からも見えていた孫文記念館は、明石海峡大橋のすぐ足元に建っている。ここは以前見学したことが
あるはずなので、8月に舞子に来たときもまぁいいかと後回しにしていたのだが、今回入ってみて驚いた!
こんなんだったか・・・見たことがあると思っていたのは記憶違いだったか・・・と。


この建物は、神戸で活躍した華僑、呉錦堂の別荘として建てられた「松海荘」が前身で、八角形と矩形の建物からなる。
とんがり帽子を載せた三階建ての楼閣は独特な姿で、防空色のようなグリーンの壁、よろい戸付の小さな窓がぽつぽつと並ぶ外観は
要塞のように閉鎖的な印象で中の様子をうかがい知れない。
現地に展示されていた説明板によると、明治20~30年代にまず矩形の建物が建てられ、そのあと松海荘の本館が、
そして1915(大正4)年~1928(昭和3)年の間に八角形の楼閣が増築されたようだ。
呉錦堂は建築の粋を尽くしたこの楼閣に、故郷への思いをこめて「移情閣」と名付けた。


1928(昭和3)年以降に国道2号線の拡幅工事のために松海荘の本館が取り壊されたが、矩形の建物と移情閣は残った。
説明の図からは、矩形の建物が移情閣と接するように移築(曳き家?)されたように読み取れる。
建物の入口や窓が不自然な位置にあるのはそのせいだ。


現存する矩形の建物は木骨煉瓦造で、大きな寄棟屋根がいかにも明治の洋館っぽく、当初からの建物だと思える。
移情閣は木骨コンクリートブロック造で、資料的に貴重という。


1983(昭和58)年に神戸華僑総会からこの建物が兵庫県に寄贈され、改修を経て一般公開された。
その後明石海峡大橋の建設に伴い、いったん解体されたのち元の位置から200m離れた現在地に移転復原された。
移情閣は国の重要文化財に指定されている。


さて中へ入ってみる。
孫文は言わずと知れた政治家・革命家で、中華民国の国父と呼ばれる。日本に一時亡命していた孫文が1913(大正2)年に
神戸に来たときに、神戸の中国人、経済界有志がここを会場として歓迎会を開いたことから関わりができ、
日本で唯一彼を顕彰する「孫文記念館」として、彼の生涯や神戸との関わりなどについて展示されている。

矩形の建物は南側が明るいガラス張りの廊下になっていて、サンルームを兼ねていたのだろう。
ここの床はコンクリートだったが、元は敷瓦が敷かれていたのではないか・・・?


部屋の中には暖炉があった。


おっ、その暖炉の前の床にはタイルが貼られている!マジョリカタイルのようだが、見たことのない柄だな・・・


と思ったら、復原されたタイル、と書いてあった。ははぁ、そうなのか!
1983(昭和58)年に兵庫県が建物の寄贈を受けたあと行った改修工事で復原されたものだろう。
表面のヒビや凹凸などは自然な感じで、言われなければ気づかないが、まぁ確かに模様が単純だ。
35年も経てば新しいタイルもこのくらいなじんでくるものなのか。




そして、若干床が高くなった八角形の楼閣へ入ると・・・うわぁ!!八角形のワンルームは外から見たイメージよりはるかに広い。
そして中心から放射状に広がった梁がすごいインパクトだ。中央にはシャンデリアが下がっている。


中央の八角形の凹みには身をくねらせた龍が彫られ、鮮やかに着色されている。まるで中国寺院の装飾のようだ。


ここにも暖炉があった。同じタイルが暖炉の両脇と前の床に使われている。




そしてこの部屋の妖艶な雰囲気を作り出しているのが、この壁紙。外壁と似た緑色地に、鈍い金色に輝く花模様が浮かび上がる。
エンボスのついたこの壁紙は「金唐革紙」。弘前の旧第五十九銀行本店本館(青森銀行記念館)でも見たところだったな!
カーテンボックスの裏から見つかった古い壁紙をもとに、明治時代の製法で復原された。小樽の旧日本郵船ビル、
旧呉鎮守府司令長官官舎(現入船山記念館)、についで3例目の復原だとか。


いやほんとに、私は洋館の中にいるつもりだったのに、この柱の列、書の額・・・中国風の寺院に見えてきた。。。
いったいここはどこなのか・・・


2階へ上ろう。


続く

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