孔舎衛坂駅跡を見に行った翌日に、もう一つの廃駅跡を訪ねた。母と兄と共に。
訪ねたのは、近鉄の旧東青山駅跡。寒い日で、山間部にある駅跡は雪がちらちら舞っていた。
近鉄大阪線の青山峠越えの区間はもともとは今とは違うルートであり、西青山駅、東青山駅も
旧線上にあったが、1975(昭和50)年に現在のルートに変更され、廃止された。
滝谷トンネルと「旧」青山トンネルの二つに挟まれた平坦部に、旧東青山駅が開けていた。
四方を山に囲まれた駅構内には、木で組んだ台に枕木を並べてモルタルを打ったような簡素なホームが
まだ朽ち果てずに残っていた。
レールは剥がされているがバラストも水路を渡るガーダーもそのままで、廃止直後から
時間が止まったような感覚。。。
滝谷トンネルの(西側)坑口にバリケードは何もなく、ぽっかりと口を開けている。
トンネルは10メートルほど行くともう光が届かず真っ暗闇・・・・うぅ~こわっ。
ホームはいくつかあり、建物の基礎のようなものも残っている。かなり大きな駅だったことが伺い知れる。
構内を西へ進んでいくと敷地の幅はだんだん狭くなり、じゅくじゅくと湿っぽく草むした廃線跡の先に、
今度は旧青山トンネルの(東側)坑口が見えてきた。こちらもバリケードはなく自由に入れる状況だが、
日当たりが悪くさっきよりも薄暗い入口を目の前にして、足を踏み入れることはためらわれた。。。
旧生駒トンネルと同じくこちらも大事故のいわくつきである。この青山トンネル内でブレーキトラブルにより
いったん誤停止した特急が暴走をはじめ、脱線・転覆、そこへ対向特急が正面衝突するという大惨事。。。
1971(昭和46年)のことである。この事故をきっかけに青山峠の区間の複線化が進み、
新青山トンネルが開通した。
廃止されて38年。人工物は時とともに自然に還ってゆく・・・
集落からずいぶん離れた山間部にぽつんとあった旧東青山駅。私たちの滞在中誰一人通りかかることは
なかった。現役だったときの駅周辺はどんな雰囲気だったのだろうか。想像するのは難しい。。。
あとから立ち寄った現在の近鉄東青山駅は、目の前が「四季のさと」という公園になっている。
この公園の東端に旧総谷トンネルの(西側)坑口があり、ここが件の事故の現場だという。
廃線跡は四季のさとのエリア内を遊歩道の形で西へ続き、公園を抜けたあたりで山腹にもぐってから、
さっきの旧東青山駅跡に出てくるはずである。
訪ねたのは、近鉄の旧東青山駅跡。寒い日で、山間部にある駅跡は雪がちらちら舞っていた。
近鉄大阪線の青山峠越えの区間はもともとは今とは違うルートであり、西青山駅、東青山駅も
旧線上にあったが、1975(昭和50)年に現在のルートに変更され、廃止された。
滝谷トンネルと「旧」青山トンネルの二つに挟まれた平坦部に、旧東青山駅が開けていた。
四方を山に囲まれた駅構内には、木で組んだ台に枕木を並べてモルタルを打ったような簡素なホームが
まだ朽ち果てずに残っていた。
レールは剥がされているがバラストも水路を渡るガーダーもそのままで、廃止直後から
時間が止まったような感覚。。。
滝谷トンネルの(西側)坑口にバリケードは何もなく、ぽっかりと口を開けている。
トンネルは10メートルほど行くともう光が届かず真っ暗闇・・・・うぅ~こわっ。
ホームはいくつかあり、建物の基礎のようなものも残っている。かなり大きな駅だったことが伺い知れる。
構内を西へ進んでいくと敷地の幅はだんだん狭くなり、じゅくじゅくと湿っぽく草むした廃線跡の先に、
今度は旧青山トンネルの(東側)坑口が見えてきた。こちらもバリケードはなく自由に入れる状況だが、
日当たりが悪くさっきよりも薄暗い入口を目の前にして、足を踏み入れることはためらわれた。。。
旧生駒トンネルと同じくこちらも大事故のいわくつきである。この青山トンネル内でブレーキトラブルにより
いったん誤停止した特急が暴走をはじめ、脱線・転覆、そこへ対向特急が正面衝突するという大惨事。。。
1971(昭和46年)のことである。この事故をきっかけに青山峠の区間の複線化が進み、
新青山トンネルが開通した。
廃止されて38年。人工物は時とともに自然に還ってゆく・・・
集落からずいぶん離れた山間部にぽつんとあった旧東青山駅。私たちの滞在中誰一人通りかかることは
なかった。現役だったときの駅周辺はどんな雰囲気だったのだろうか。想像するのは難しい。。。
あとから立ち寄った現在の近鉄東青山駅は、目の前が「四季のさと」という公園になっている。
この公園の東端に旧総谷トンネルの(西側)坑口があり、ここが件の事故の現場だという。
廃線跡は四季のさとのエリア内を遊歩道の形で西へ続き、公園を抜けたあたりで山腹にもぐってから、
さっきの旧東青山駅跡に出てくるはずである。
国土地理院の1/25000地図を仕入れて、西青山から165号線をを歩いたものです。
現在と違い、ネットで事前調査することもなく、ほとんど行き当たりでの訪問でした。
昭和48年夏に、家族で名古屋へ行った帰りは近鉄特急に乗り、運転台後ろで兄貴とカブリツキを楽しみましたが、この駅で特急同士のすれ違いをした記憶があります。
行ってみないとなかなか分からなかったでしょう。
しかし現役時代の記憶があるのですか!
昭和48年だと事故後廃止になるまでの間ですね。
駅はどんな雰囲気だったでしょうか。
勝手なイメージですが、南海高野線の紀伊神谷駅のような
雰囲気だったのかなと想像しました。もう少し構内が広いですけどね。
私はこういうところを探訪したことはないので、一度行ってみたいです。
お母さん、お兄さんと一緒に訪ねられたのも素晴らしいですね。
私は建物の廃墟は何か犯罪のにおいがして怖いのであまり
好きではありませんが、廃線跡をめぐるのは好きなんですよ。
もちろん鉄道が廃止にならないように乗ることが一番ですが
世の中の流れに抗えずやむなく廃止されたり、新しいルートができたために廃れたりした線路跡が
徐々に自然に還っていきながらも、存在を無言で主張するかのように
痕跡を残しているのが、なんだかいじらしいというか
愛おしいというか・・・(笑)
もとは兄に連れられて法隆寺線の廃線跡に行ったのが最初です。
旧線(単線)時代は、列車交換の為の信号所的な役割だった模様です(地元住民の利用はあったでしょうが)。
参宮急行時代にはここを2200系が轟音と共に駆け抜け、もっと後にはビスタカー(初代・Ⅱ代)も通った、過去の栄光と言えば北陸線旧線と同格クラスの幹線ルートだったのですね。感無量です。
因みに特急の正面衝突事故が起きたのは旧線青山トンネルではなく、もっと中川寄りの総谷トンネル旧線だった筈。重箱の隅的老婆心(老爺心?)までに。
東青山駅は信号所的な役割だったのですか、なるほど。
こんなところに駅があって誰が使っていたのだろうと
不思議に思っていたのです。
それにしてもビスタカーが走る時代まで使われていたのですね。
事故のことはネット検索していろいろ読みましたが、
旧青山トンネル内でブレーキトラブルが起こったのですよね。
衝突は総谷トンネルで。。。どちらにしてもこんな山中で
暴走の果て正面衝突なんて、恐ろしすぎます。
それを機に安全なルートができたのは喜ばしいことです。
この静かな駅跡はその事故が確かに現実に起こったことを物語っていますね。
検索の仕方が悪いのか、現役時代の駅がばっちり写っているような写真があまり出てきませんが・・・
信号所のような駅だったということですので、台湾の枋野信号場のような雰囲気だったのかなと想像します。
→https://blog.goo.ne.jp/punyor/e/c079d00792bbadf01788a47edc8a2a42