昔、知り合いに冗談半分で「英語なんて参考書買って自分で勉強すればできる」と言われたことがあります。
私が「でも先生につけば、勉強の仕方とか教えてもらえますよ」と返すと、
「ちょww目がマジなんだけどwww」と言われました。
その時は、まぁ英語を教えることを中心に収入を得ていたので、ちょっとムキになったのは否めません。
でも悔しいことに、その場ではそれ以上意味のあることは言えませんでした。
当然、勉強は一人でもできるし、やればやっただけその能力はアップします。
私だって医学部受験生に教えるために独学で生物学の参考書を読んで、独学の効果を実感したものです。
自主学習の勉強の量・質・スピードは千差万別。
教養目的とか、趣味とかで勉強するなら、楽しめればそれでオッケーです。
でも、問題は「目標」が伴うとき。
そして目標にはだいたい、「期間」がセットでついてきます。
特にテストなんていうのは、各人の千差万別の勉強成果に対して、一定基準で審査します。
教師は、生徒の目標を速やかにクリアできるように手助けすることができます。
また、目標には往々にして、次の目標が伴うので、それに首尾よくつなげてあげられたり、関連する学習項目をリンクさせてあげることができます。
「効率」を上げることによって、このような学習内容の深化・拡大に時間が割けるようになるわけです。
一方で、膨大な情報を、適切に「限定」してあげることも教師の役割です。
勉強法、参考書選び、関連事項、細論各論などなど、全て試したり吸収する時間はありません。
知識を定着・発揮させるための方法論なんかについても同じことが言えるでしょう。
そのため、教師はまず最初に「診断」を行います。
性格、興味の対象、初期能力値などなど。
クラス授業になると、この最大公約数になるでしょうけど。
これに応じて、指導計画を立て、適宜修正しながら、進めていくことになります。
「診断」という言葉が出たので、医師とのアナロジーで考えてみましょう。
医師が患者の命を扱うように、教師は生徒の人生を扱います。
ですが、医師が万能でないように、教師だってそうです。
たとえば、「診断」を誤って、出会えていれば助けになったはずの情報を遮断してしまう、といったリスクが常にあるのです。
そういう覚悟で臨まなければなりません。
万人に有効な方法論はありません。
物事には常に例外が存在します。
医師/教師は、自分が一番良いと信じる方法論を患者/生徒に適用しますが、相性が常に良いとは限らないのです。
また、医師が患者の代わりに治ってあげることができないように、教師は生徒の学習のサポートをすることしかできません。
医師/教師は常に勉強をして、経験を積んで、毎回ベストを尽くすということしかできないのです。
私は教師です。
人に教えるための勉強、人の勉強を助けるための勉強をしています。
(まぁ教員免許は持っていませんし、残念ながら今は教えるのが本職でもありませんけど)
大人だろうが教師だろうが賢者だろうが、いつでも学ぶ者であり、誰か/何かの生徒です。
勉強ってなんだろう?教師って何だろう?と考えずにはおれません。
一つには、「ミーム」に突き動かされている、すなわち「(集合的)知識」そのものが進化を求めているということもあるでしょう。
あるいは、「自分が培ってきたものが誰かの役に立つ=それだけの価値があるものを有している」と信じている、ただのエゴなのかもしれません。
いずれにせよ、人間が自らを再生産する存在である限り、我々の命題であり続けることでしょう。
…でもやっぱり、究極的には、「マジ面白いから!お前も絶対ハマるって!!そんで語り合おうぜ!!」っていう、同志を生み出したい心が人に教えさせるのかもしれませんね(笑)
私が「でも先生につけば、勉強の仕方とか教えてもらえますよ」と返すと、
「ちょww目がマジなんだけどwww」と言われました。
その時は、まぁ英語を教えることを中心に収入を得ていたので、ちょっとムキになったのは否めません。
でも悔しいことに、その場ではそれ以上意味のあることは言えませんでした。
当然、勉強は一人でもできるし、やればやっただけその能力はアップします。
私だって医学部受験生に教えるために独学で生物学の参考書を読んで、独学の効果を実感したものです。
自主学習の勉強の量・質・スピードは千差万別。
教養目的とか、趣味とかで勉強するなら、楽しめればそれでオッケーです。
でも、問題は「目標」が伴うとき。
そして目標にはだいたい、「期間」がセットでついてきます。
特にテストなんていうのは、各人の千差万別の勉強成果に対して、一定基準で審査します。
教師は、生徒の目標を速やかにクリアできるように手助けすることができます。
また、目標には往々にして、次の目標が伴うので、それに首尾よくつなげてあげられたり、関連する学習項目をリンクさせてあげることができます。
「効率」を上げることによって、このような学習内容の深化・拡大に時間が割けるようになるわけです。
一方で、膨大な情報を、適切に「限定」してあげることも教師の役割です。
勉強法、参考書選び、関連事項、細論各論などなど、全て試したり吸収する時間はありません。
知識を定着・発揮させるための方法論なんかについても同じことが言えるでしょう。
そのため、教師はまず最初に「診断」を行います。
性格、興味の対象、初期能力値などなど。
クラス授業になると、この最大公約数になるでしょうけど。
これに応じて、指導計画を立て、適宜修正しながら、進めていくことになります。
「診断」という言葉が出たので、医師とのアナロジーで考えてみましょう。
医師が患者の命を扱うように、教師は生徒の人生を扱います。
ですが、医師が万能でないように、教師だってそうです。
たとえば、「診断」を誤って、出会えていれば助けになったはずの情報を遮断してしまう、といったリスクが常にあるのです。
そういう覚悟で臨まなければなりません。
万人に有効な方法論はありません。
物事には常に例外が存在します。
医師/教師は、自分が一番良いと信じる方法論を患者/生徒に適用しますが、相性が常に良いとは限らないのです。
また、医師が患者の代わりに治ってあげることができないように、教師は生徒の学習のサポートをすることしかできません。
医師/教師は常に勉強をして、経験を積んで、毎回ベストを尽くすということしかできないのです。
私は教師です。
人に教えるための勉強、人の勉強を助けるための勉強をしています。
(まぁ教員免許は持っていませんし、残念ながら今は教えるのが本職でもありませんけど)
大人だろうが教師だろうが賢者だろうが、いつでも学ぶ者であり、誰か/何かの生徒です。
勉強ってなんだろう?教師って何だろう?と考えずにはおれません。
一つには、「ミーム」に突き動かされている、すなわち「(集合的)知識」そのものが進化を求めているということもあるでしょう。
あるいは、「自分が培ってきたものが誰かの役に立つ=それだけの価値があるものを有している」と信じている、ただのエゴなのかもしれません。
いずれにせよ、人間が自らを再生産する存在である限り、我々の命題であり続けることでしょう。
…でもやっぱり、究極的には、「マジ面白いから!お前も絶対ハマるって!!そんで語り合おうぜ!!」っていう、同志を生み出したい心が人に教えさせるのかもしれませんね(笑)