Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

「絶対観」は原始的な思考です(9)

2005年04月24日 | 一般
ルソー登場


教会権力のもとでは、人間にとっての「善」というのは、神と、神が与えた権威や権力に対して、清く、正しく、潔く生きること…。だから被支配者たちが自由に意見を言い、自分の生を自由に選ぶなどというのは自分勝手なことだと信じられていました。近代になって哲学が復興し、人間はひとりひとりが自由な存在である、自由であるとは、利己心を克服して理性にもとづいて行為する能力を持っているということである、そういう意味で自由である人間は道徳的に生きることが必ずできるのだ、という理解を得たのでした。

したがって、近代哲学的には、「善」とは「神」や「神聖なる権威」に由来するものではなく、ただ人間の「理性」に由来するものである、そして社会とは、各自が自由であることを自覚したひとりひとりの人間がみな対等の存在であることを認め合い、全員の合意で作ったルールで運営すべきものだという認識に達したのです。社会を形成して、共同作業で生きてゆく際にも、共同体としての結びつきを維持したままでなおかつ、誰にも隷属せずに自由なままでいられるような社会のあり方、そういうものをルソーは考案したのでした。それが「一般意志」を根拠とする「社会契約」という概念です。

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「社会契約論」の最初のほうにこのように書かれています。

「社会秩序は神聖な正義であり、他のあらゆる正義(=法や権利)の基礎の役割がある。しかしこの正義の根拠は自然から出てくるのではなく、いくつかの約束かに基づくのである」。

法や権利は、その社会で正しいこと(=正義)として認められているものです。ではそのほうや権利の正当性はどこに由来するのでしょうか。ロックはそれを神によって賦与されたものと言いました。しかし、ルソーは神に由来するとはまったく認めませんでした。
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ルナもまったく合点、合点! 神はもううんざり! 神はもう引っ込んでてよね!
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ルソーは、法や権利というものはすべて、人々の取り決めであり合意にもとづくものだと考えます。もちろん、とにかく多数決などで合意があれば何でも正義というのでは、秩序は保てません。そこで、あらゆる権利や法の大前提となるような根源的な取り決め、つまり社会秩序そのものを成り立たせる根源的な取り決めがあらねばならない、それは何だろうか、とルソーは考えたのです。その答が「社会契約」と言うのです。

その際、「下記人がすべての人と結びつきながら、しかも自分自身の自由は失わない(社会契約論 第1篇第6章)」ような社会のあり方がなくてはならない、とルソーは言います。そういう性質を持つ「社会契約」の基本条項とは何か。それが、「われわれの各々は身体すべての能力を共同のものとして、一般意志の最高の指揮の下に置く(社会契約論 第1篇第6章)」というものでした。

「一般意志」とは、問答無用に服従すべき全体主義的な国家の意志、などというものではありません。ここで重要なのは、一般意志は各人の意志でなければならないという意味であって、「だれもが求め、だれもがそれを望む」と言う意味内容のものなのです。そしてそれは何よりも、法や政策の正当性を決定づける根拠となるものである、と言う意味なのです。

ルソーは人民主権の立場をロックよりも明確に打ち出していて、そこでは法は人民集会(議会)で議論され、最終的には多数決で決定されることになります。しかし、ルソーは「多数」が法の正しさの根拠となる、とは考えませんでした。

たとえば、多数決が絶対であるとすると、国民の9割を占める白人が団結して、「残り1割の黒人からは税金を倍額とる」というような法案を通過させてしまえば、それも正義だと言うことになります。これはどう考えても正しいことじゃないですね。法の正当性の根拠となるのは、だれもがそれを自分の利益になると認め、だれにとっても必要とされることでなければならない。一般意志であるかどうかは、社会を構成するメンバーひとりひとりの対等性をきちんと考慮して法を定めるべきだ、とルソーは言います。しかたがって、先のたとえの「黒人税金倍額法」は対等性(公正さ)を欠いているため、一般意志とはなりえず、法として正当性は認められないということになります。

人民集会(議会)での議決の際は、「この法案が“私”の得になると言う理由で判断してはいけない、それがどんな人にとっても得になるかどうか、という点から判断しなくてはならない、とルソーはいうのです。ですから、「一般意志に従え」という社会契約の条項は、「法を決める際には私だけの利益を顧慮するのではなく、各人の利益を顧慮することにします。そして各人の利益となる法には、納得して従います」という意味なのです。

著者(西研氏)のことばでかみくだいてまとめましょう。
つまり、あらゆる個別の法や権利の大前提にあるものは、その共同体のメンバー同士はみな対等であることが保障され、互いが生きられるように配慮しよう、という内容の「契約」である。だとすれば、対等な人々の誰もがそれを必要とすること(=一般意志)のみが、ルールの正しさを決める基準となる、ということです。このようにルソーの思想をまとめることができます。
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(ルナは言いたい!)
エホバの証人の統治体の「政策」あるいは成員管理はこれと比べてどうでしょう? 彼らはメンバーの「対等性」を認めているでしょうか? メンバーの側に立った仕方で必要を顧慮しているでしょうか?
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しかし、「一般意志」とは実際に全員の賛成を調達しなければならない、ということではありません。そうではなく、ひとつの法案は「ほんとうに誰にとっても必要なことかどうか」という観点から吟味されるべきことだという意味です。ルソーは強調してはいないのですが、「一般意志」は現行の法律を批判する際にも必要な概念と言えます。なぜなら、「それは一部の人を利するものでしかない、すべての人にとって利されるものでなければ一般意志とはいえない」と言うことによってのみ、批判が可能になるからです。

このことを言うのは著者が若い頃に、このルソーの考えかたに心打たれることがあったからです。というのは、民主主義が大切だ、少数意見の尊重も大切だなんて言ってても、結局は多数者や力のあるものが都合のよいようにもっていくだけじゃないのか、という思いがあったからなんです。つまり見んし主義に対する不信感を持っていたのでした。かといって、多数者を軽視しつつ、「真の正義」なるものを少数で固持しようとする前衛的な姿勢は、それはそれで独善的で非常に勝手な思い込みになりやすい(**ルナは言いたい、エホバの証人はこの手の独善主義です!**)では、正義の根拠をどう考えればいいのか、若い頃の著者は頭をひねっていたものです。

ルソーの考え方は、多数がそのまま正しさの根拠ではないことを認める。数を頼むのではなくって、さまざまな立場の人々が共存してゆく上でどういう法律あるいは取り決めが本当に必要であり、有用なのか、その観点から考えてみる、という姿勢を教えてくれる。さまざまな人々の多様性を認めつつ、誰にとっても必要かつ有用な取り決め、法を立てようとする態度、そこにしか政治の原理はありえない、と著者は思うからです。

近代の考え方では、自律、つまり自ら洞察したものに従う、ということに自由があるのでした。哲学や学問がその意味で自由な同意によって営まれるものであるように、法や諸制度が「一般意志」を体現するものになり、各人の洞察と自由な同意によって支えられるものとなるならば、国家は強制と抑圧のシステムではなくなり、われわれが自由=自律を実現する場面となるでしょう。もちろんこれは理念であって、完全に実現されることはないわけですが、近代がつくりだしたこの理念を、わたしたちはもう手放すことはできないだろうと、著者は考えます。

さて、ホッブズからルソーに至ってつくり上げられてきた社会の理念。これを対等な市民たちが取り結ぶ社会、という意味で「市民社会の理念」と呼ぶことができるでしょう。その骨格をあらためて整理しておきます。

1.出自、民族、宗教を度外視する。社会の成員であることの要件は、その社会のルールを守ることにある。
2.国家(統治組織)というものは、成員個々人が自由に幸福を追求するためのものである。
3.社会の成員はルールの下で対等である。ルール決定についても対等である。
4.社会のルールの正当性はただ「一般意志」にのみもとづく。支配者側に利するものであってはならない。
5.ルールに決められたこと以外は、すべて各人の自由に任される。
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教会の神権支配は個人の人権は認められていませんでした。個人が生まれついた階級において決められていたレールだけを生きなければなりませんでした。そこからの脱出を計ろうとして、神の手から「人権」を奪い返されたのです。それなのにどうして元通り、自らを神のくびきにつながねばならないのでしょう。そこには、自分に自信がなく、自己評価が低いため、自分で生きる道を見出せず、他人から評価されなければ自分に確信が持てない、といった事情、あるいは何か大きな力、大きな組織を「虎の威」にしなければ自信が持てないという、心理学的な事情があるからなのですが、それは進歩とは裏腹の、退歩退行現象のようにわたしには思えます。エホバの証人のような生き方や人格のあり方を上から与えられるような人間のあり方というのは、自律を放棄した逃避でしかないのではないでしょうか。自分ひとりならそれも勝手かもしれません。しかし、子どもから自律する人間性を奪ってしまうのは、はなはだしい人権侵害だとわたしは思うのです。いかがでしょう?


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