Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

絶対観は原始的な思考です(4)

2005年04月05日 | 一般
哲学がさかんになったのはギリシャです。哲学になど関心を持たない人々でも名前くらいは知っている、プラトンなどの人たち。世界のありようだけでなく、道徳について、自己について論理が展開されたようです。論理の展開の方法まで体系化されました。アリストテレスは「弁論術」なる著作物を著しています。しかしいつしかテーマを見失い、論理を展開すること、弁論技術そのものに酔い、議論で勝つことだけを追及する風潮も現れてきました。ディベートです。

ある問題について賛成側と反対側に分かれて討論しあう。これは「自分自身がどう考えているか、何を信じているか」ということは全く無関係に賛成か反対かの立場が決められて、賛成側に立ったら賛成のための議論を作り上げ、反対側に立ったら反対のために議論を作って戦うのです。そう、「戦う」のです。異なった意見に照らし合わせて自分の信条をより調整し、磨くということは論外です。つまり弁論術の能力の高さを競うのです。ギリシャ時代には政治家のためにこういう無節操なディベート屋が家庭教師として雇われていたようです。「ソフィスト」と呼ばれていました。「大人のための哲学授業/西 研・著」にはこのように書かれています。

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わたしたちが小学校の頃は、「こう考えるのが正しい」「これはこうに決まっている」と思っています。しかしそのうちにだんだん、「理屈というものは何とでも言えるものだ」ということに気づいてゆきます。実際にソフィストたちは、「借金を払わなくてもよい」とか、「父に逆らってもよい」という理屈も作り出し、教えたと伝えられています。どうしてこんなことになるかというと、あらゆる判断はかならず何かの観点に基づいているからです。観点をずらしさえすれば賛成論・反対論をつくるのは自在なのです。

たとえば盗みは、盗まれた相手によっては、たしかによくない。しかし、論点をずらしてみればどうか。病気で寝ていた盗人の子どもにとっては、その盗みによってようやく薬を手に入れることができたのであって、それはよかったことになる。また、盗まれた相手も、盗まれたことによって重要な教訓を得ることができる。たとえば、財産を増やすことばかりを考えていたが、財産は必ずしも生活に安全を保障する訳ではない…など。

論点は、盗みの行為が法に違反しているということと、被害者への補償なのであって、盗人の家庭の事情は関係ないのです。しかし、盗人の側に特殊な事情がなかったなら、盗みは行われていなかった「かもしれない」。だから酌量すべき、と言いぬけるのは論点をずらしたのです。行われなかったかもしれない可能性が問題なのではなく、問題は盗みが行われて、被害を被った人がいるという既成事実なのです。
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こういう「弁論術」を特に指して「詭弁」と言います。詭弁の技術には
・権威を持ち出して、それをもって「公理」となし、議論をストップさせる
・論点をすりかえる
・主張を言い換える
・消去法の逆用
・ドミノ論法
などがあります。
いつかまたこの技術に対処する方法についてくわしく説明したいです。一言でいうと、イエス・キリストの話し方に倣うことです。この方法を知っておくことは、エホバの証人をお知り合いに持たれる方には役に立つかと思います。エホバの証人の人たちはとにかく自分を正当化しようとしますので、「何とでも言える」理屈を器用に駆使するからです。
(http://www.d2.dion.ne.jp/~majinbuu/kiben.htmを参照してください)

話をもとに戻します。以下、前掲書から引用を続けます。

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古代ギリシャの「ソフィスト」たちは、あらゆる判断が何かの観点に基づいて成立することを知っていたのであって、これはこれで判断や理屈というものの本質を考える上ではひとつの「進歩」といえるわけです。しかし、「きちんと自分のあたまで考えて互いに納得のできる理路をつくる」という哲学の本義からすると、これはたいへん困ったことになる。「結局、何とでも言えるのさ」という感覚が広がってくれば、真偽というものはあやふやなものと感じられるようになります。そうなると、真剣に考え、議論を闘わせて、誰でもが納得できるような理路をつくり上げてゆこう、という意欲も壊れてゆくことになります。これでは哲学は存在する意義を失い、それこそ宗教神話の思考に逆戻りしてしまいます。

それと関連して、素朴なモラルの感覚も崩壊してゆきます。どんな社会にも、ずるいことをしない、うそをつかない、、ルールの適用に対してはえこひいきをせずに「公正な」態度を取る、というような自然なモラルの感覚があるはずです。しかし、「何とでも言える」という感覚はずるいことでも何でもかまうことはない、ともかく弁が立ちさえすればOKさ、という感覚をはびこらせます。それは堕落を生み出します。弁論の能力を競う気運が過熱すると、それは自然な道徳感覚と対立するようになります。また当時のギリシャ社会で義務とされてきた「市民は国家に尽くすべし」といったモラルも、素朴に信じられるものではなくなってきます。人が何ごとにつけ「観点をずらして」、モラルに疑いを差し挟むようになります。これはモラルを危機にさらし、共同社会生活そのものを脅かします。ソフィストたちの自己顕示欲が招く汎相対主義・懐疑主義の風潮、それらが引き起こすモラルの危機。これってまるで現代のようですね。だからこそ今、汎相対主義とモラルの危機を乗り越える考え方、科学の分野では扱わない問題を扱う「哲学」が必要とされている、と私(著者)は思っている訳です。
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じつはエホバの証人もこの観点に立って、宗教的絶対主義を主張します。科学では人間が存在する意味、自分という個人の生きている意味、平和と安寧を社会に実現させる方法は見出せない、そういう科学では達成できない問題を扱えるのは、エホバの主権を受け入れることだ、なぜならエホバは世界を創造された方であり、生命の創造者であり、人間のいわば生みの親なので、人間に対して唯一支配権を正当に主張できる者だ、エホバは正義を公正を「完全に」達成できる方だ、なぜならエホバは愛と慈しみに満ちた「人格」を模範的に表される方だからだ、そしてそのエホバを唯一正統に代表しているのはエホバの証人だけだ、と主張しているのです。

ではエホバの証人は「誰でも納得できる」普遍的な世界説明を行っているでしょうか。エホバだけが真の神であり、ほかの神は人間の創作によるもので実在しない、という主張を「概念」によって論理的に検証しているでしょうか。聖書とエホバは「人間の創作」ではないと、検証しているでしょうか。エホバの証人は聖書とエホバが実在するのを実証しようとして、科学を持ち出します。科学的な検証をするのではなく、科学者たちの研究成果や著作物の文脈から都合のよい文章を切り出してきて、それを「概念」として使い、論理を組み立てます。ところがその「概念」の出典先の文献では、文脈を見るとまったく異なった意味であったり、時には単に修辞的に使われているだけの文章であったり、ある場合などはエホバの証人の主張とは真っ向から反対する意味の文脈であったりするのです。これではその「概念」そのものに欠陥があることになります。誰でも納得できる内容ではないからです。当の著作者である学者自身が不本意なのです、そんな風に使われるのは。脳神経を専門に研究されている理学者で村本治という方が、エホバの証人情報センターというHPを運営されておられるのですが、その中で氏ははっきりとエホバの証人のこのような手法を「捏造」と表現しておられます。(http://www.jwic.com/life_con.htmを参照してください。)

科学では造物主が実在するかどうかなどということを扱えないのです。自然科学は自然に実在する現象、事物を観察するものだからです。自然に見られる仕組みを文化や宗教を超えて、誰でもが理解できる仕方で表現しようとするものだからです。そこにある高度な仕組みをどの人間にも通用するように表現しようとしているのです。どの人間にも納得のできるように表現するために、なんとかの神がこれこれこういう意図をもって創ったなどという神話を採用しないというところから、哲学が創始されました。そして自然哲学をより厳密に検証しようとしたのが自然科学です。

ただ哲学は自然だけでなく、人間と社会というものをも扱います。人間を扱う哲学から心理学が派生しました。こんにち、心理学には「実験心理学」や「社会心理学」、「認知心理学」という分野があって、それらは科学的手法によって研究されています。精神医学もフロイドやユングに執着せず、臨床の立場からきちんと統計を取って、科学的に研究されています。いずれも造物主へ帰依しなければならないと主張してはいません。手段の一つとして宗教の効用は認められていますが、宗教が絶対不可欠のものとは見ていません。科学は宗教的世界観を捨てるところから始まっているのであって、科学が特定の宗教を「立証」するなんてことはナンセンスなのです。宗教的世界観、絶対的な考え方というものを捨てたところに哲学があり、科学があるのです。

では人間が生きている意味はどうでしょうか。哲学によってそれは「普遍的な」つまり誰でも納得のゆく説明を見出せているのでしょうか。「哲学ってなんだ」から再び見てゆきます。
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