Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

「やさしい心」を感じていますか

2005年04月09日 | 一般
「やさしい心を感じていますか」

誰もが母なるものにふれたいと願っていることを、あなたは知っていましたか。
どんなに偉くても、どんなにお金持ちでも、どんなに美人であっても、人は疲れたとき、心のふれあいを求めたくなります。

心のふれあいとは、何かを分かち合うことです。
こんなバカなことをしても微笑んで認めてくれる。
こんなにひどいことをしてしまったのに許してくれた。
そんなとき、人は泣きたくなるほどうれしくなります。
やさしさにふれたとき、人は強くなります。

自分を分かってくれた、自分を認めてくれたうれしさで、
そんなやさしいあなたにすがりつきたくなります。
…あなたのためなら何でもできると。
人は自分のためなら、苦しいことから逃げます。
でも愛する人のためなら、どんな苦しみにも耐えてなお前進することができるのです。

「愛」は生きる活力なのです。「やさしさ」は生きるうえでどうしても必要な母なる大地なのです。

「やさしい人」には心を開きたくなります。誰もがさびしいからです。甘えてみたいのです。そこに心のふれあいを感じます。心のふれあいのある関係だからこそできる何かに、「幸せ」と心の安らぎを感じるのです。

心を開くことで人間関係はなめらかになります。
ではそのやさしさって何ですか。これは言葉とか形式ではないもの。体や心が感じとるものです。次の例を読んで、なんとなく感じられるもの、それがやさしさだと思ってください。

たとえば、「お茶を淹れる」という行為ひとつにも「やさしさ」があります。一般的に、お茶は飲みたいときに飲むもの。淹れてほしいと求められたときに淹れてあげる。こんな感覚で私たちはいれています。

しかし、お茶にはこのほかに、「安らぎ」を与える効果もあるのです。
たとえば、会社、学校から帰ってきたときに、
(1)飲んでも飲まなくても、そっとテーブルにお茶がでたとき
(2)「お茶を飲みますか」と聞かれたとき
(3)「私も忙しいんだからそのくらい自分で淹れて飲んでよ」と言われたとき
あなたが、家に帰ったなーと感じるのはどれですか。
やっぱり家が一番だなーと感じるのはどれですか。
「幸せだなあ」と感じたもの、それが「やさしさ」にふれた瞬間です。

たとえば、仕事で失敗してしょげていたとき、不器用な手つきでお茶を淹れ、黙って肩をポンとたたいてはげましてくれる上司、あるいは同僚に出会ったとき感じるもの。たとえば「ホッ」とするもの。それをことばで表現すると「やさしさ」になります。

最近、人は形にとらわれています。お茶なども「のどが渇いたから飲むものだ」という、あくまでも生理的な要求、相手からの要求を満たしてあげるためのものと思われているようです。しかしもっと大事なことは、「お茶を淹れる」行為を通して、精神的な満足感を相手に与えてあげることです。そこに「やさしさ」が生まれるのです。

「お疲れさま」といくら言葉でねぎらってくれても、心が安らげないことがあります。それは言葉ですませる安易な気持ちを感じ取るからです。理性だけを納得させているからです。逆に言えば、だから、「お茶を淹れてもあの人はあたりまえみたいに思っている」という不満がでるのです。それは要求と義務の違いがあるからです。

しかし理性以上に強く感じるのは、他者からの承認あるいは受容を得ていたいという欲求、それはより「本能」に近い欲求です。本能が感じるのはまさに動物的、より根源的な愛情なのです。

お茶をわざわざ淹れてくれた行為の、努力の裏にある「自分を思ってくれる」やさしさを、本能が感じる。「言わないでも」自分のことを考えてくれたと思ったとき、そこではじめて理性も本能も「やさしさ」を感じる。
自分を承認し、受容し、肯定してくれる、包み込むような気持ちにふれたとき人は安らぎを感じます。それが幸せです。

やさしさとは人間の本能が感じ取る動物的、根源的な愛情なのです。
こうしたらきっとこのように返してくれると期待しての行為は「愛の賄賂」です。見返りを求めない行為こそ「やさしさの心」なのです。

(大原敬子・著/「あなたに贈る希望の言葉」より)
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