Luna's " Tomorrow is a beautiful day "

こころは魔もの。暗い地下でとどろくマグマのような…。

自分のために…!

2007年01月25日 | Weblog
長続きするためには、「これは自分のためにやっている」という気持ちがどこかに必要です。

中谷彰宏(心理学者) / 「3分で『気持ちの整理』ができた」より。

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自分の損得を考えず、人のために何かに打ち込む人は、まじめでいい人が多いのです。こうしたボランティア精神で一生懸命何かをしている姿は美しいものです。

ところが、そういう人が、それをフイッとやめてしまうことがあるのです。自分の思いどおりにいかなかったり、誤解されたり、裏切られたりしたときに、「せっかく自分が美しい気持ちでやっているのに裏切られた。もう人間なんて信じられない」と思ってやめてしまうのです。ボランティア精神でやっていた人が、突然、人間嫌いになるのです。

「人と接するのが好きだから」と言ってサービス業に就いた人にも、突然、人間嫌いになる人がいます。
「私はお客さまに喜んでもらおうと思って、こんなにやっている」
  ↓
「それなのに、お客さまに理不尽なクレームをつけられた」
  ↓
「もう人間なんて信じられない」
…ということになるのです。もともと人間が好きだと思っている人や、人のために何かしようと思っている人ほど、ポキッと折れてしまうのです。

こういう純粋な気持ちを持つのは、間違ったことではありません。でも、こういう気持ちだけで何かをやろうとすると、挫折する危険があるのです。長続きするためには、「これは自分のためにやっている」という気持ちがどこかに必要です。

ボランティアも、自分のためにやるのです。ボランティアをすることで、自分自身がハッピーになると考えるのです。誰かのためにやっていると思うと、一回でも裏切られると挫折しやすいのです。自分のために一生けんめいやっているのであれば、少々裏切られても、「これは自分のためにやっているんだから」とおもって、嫌なことでも受け入れられるのです。

(上掲書より)

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人のために尽くしたい、人の役に立つ人間でありたい、という動機には往々にして、人々から認められたい、人々から称賛されたいという、自分でも気づいていないかもしれない本音があることが多いのです、実際には。人から感謝され、人から認められることで、自分に意義を見出せる、と信じているのでしょう。

でも、自分の意義は、生まれたときから備わっているのです。自分が生きている、それだけで、生んだ親はハッピーだし、何よりも、世界を意識できる自分が、人間として何かを行える機会を得られたのですから、それはすばらしいことです。ですから、人間として「人生」を生きる機会が与えられたのですから、自分は精いっぱい、その機会から満足のゆくまで自分の才能を花咲かせればいいのです。

幼い子どもは、何にでも興味を持ちます。子どもは、そうやっていろんな興味を「遊び」という形でいわば「探索」します。ある日その中から、自分が追求してみたいものを見出すようになります。こんなふうに、自由な風潮で育てられた子どもは幸せです。

ところが現実には、「親の期待」さらには「親の要求」が子どもに、ある時は暗黙のうちに、ある場合は公然と押しつけられるのです。子どもはこうしたいと思うのに、親が不機嫌になったり、怒ったり、ひどい場合は体罰を加えて屈辱を子どもに味わわせたりして、そんな仕打ちを受けないですむ対象を仕方なく選び、行うようになります。ある場合はそれは、有名大学に入るための受験勉強であったり、家業を継ぐための修行であったり、そして親が選んだ宗教の掟に従い、子どももその宗教を選ぶためであったり。これが「コントロール」です。子どもは、生きかたを強制されるのです。キレる子どもに多く共通している点は、親の過干渉だそうです。過干渉とは親の意向、親の好み、親の期待や要求を押しつけることです。親の言われるとおり、「エホバの喜んでもらえるように、開拓奉仕に入り、必要の大きな会衆に出たのに、そこで妬みを買っていじめ抜かれた」となれば、その人は人生に悲観するようになります。

そういう人は、自分が本当に楽しいと思ったことに打ちこんで追求したときに覚える「喜び」というものを経験せずに生きてきたために、何が自分にとって充実したことなのかがわからないのです。さらに、何が自分を充実させるのかもわかりません。幼い頃から、やる「べき」ことを親から押しつけられてきたのであり、自分で見つけ出すことに対して、罰せられたり、言葉の暴力と身体的な暴力で侮辱されたりして、自分の思うとおりに生きると言うことに罪悪感を植えつけられてきました。これが、生きる目的とは造物主に与えられるものだと考える人の心の仕組みです。「神がいないとしたら、人生には目的がないことになる」と考えるのです。

ところが、「神に与えられた使命」を「自己犠牲的に」行う人たちは多く挫折します。思うとおりにいかないし、協会から教えられたのとは違う状況に直面するからです。しょせん、他人から押しつけられた「人生の目的」とは、そんな事情でその人を挫折させるのです。

中谷さんのおっしゃるところは、自分のために、自分がしあわせになるために、一生けんめいになるように、ということです。そのためには、自分が一生けんめいになれるものを、自分で探さなくてはなりません。そのまえに、親や宗教から教え込まれた「枠型」つまり、偏った道徳観やイデオロギーを「脱ぎ捨て」る必要があるでしょう。「道徳」というものはなんでも立派なものではないのです。「道徳」は人間にはめられる行動のタガであり、人間を他の人間がコントロールするための「糸」なのです。

哺乳類が生まれてきたら、何を始めるかといえば、親から自立することを始めます。わたしたちは親から自立するのが当然なのです。ところが、親への義理をいつまでも抱き続けるひとがいます。親から十分な承認あるいは肯定を受けなかったため、親から自立できないのでしょう。子どもは十分甘えつくすことで、自分に自信を持つようになって、自立するようになるのだそうです。エホバの証人は、集会で静かにしているよう、いたずらをしないよう、厳しく育てられ、体罰によって行動を規制されます。肯定よりも、「自分であること」の否定が「しつけ」として行われています。自然に持つ感情は、受け継いだ「罪」の影響を受けているので、ものみの塔協会のガイドラインに沿ったパターンにはまらなければならないという、それはいわば脅迫であり、調教なのです。十分に甘えることができなかったために、親への執着心が、親のためにとか、親がかわいそうという感情にすりかわって残るのだそうです。(加藤諦三さんの諸著書を参考)

わたしたちは自分のために生きるのです。自分が成人すれば、心の健康な親は、新たに自分の目標を自分で見出すようになるでしょう。心の未成熟な親が、子どもにかまい、子どもに助言したり、叱ったりすることで、生きる意義を見出そうとするのです。自分で生きてゆくことのできない弱さを慰撫するために、子どもを利用するのです。それは決して「愛」ではありません。それは「不安」です。子どもという生き甲斐を失うことへの不安なのです。それは自分への愛であり、子どもへの愛では決してありません。親の子どもへの最大の愛は、子どもが自分で人生を営んで行けるよう、自信を与えることなのです。それは、自分から自立させると言うことです。