Luna's " Tomorrow is a beautiful day "

こころは魔もの。暗い地下でとどろくマグマのような…。

「親分-子分」なんてもう捨てちゃおう!

2007年01月18日 | Weblog
目標として誰かを置くことはかまわない。

または、自分の理想像として、
 「あの人のようになりたい」と思うこともかまわない。

でも、所詮自分はその人ではないということは、決して忘れてはならない。



渡辺和子/ 「人間としてどう生きるか」より

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自分に自信が持てないとき、傷ついて失意のとき、わたしたちはともすれば、誰かの威光を借りて、その人に特別に寵愛してもらおうと心を砕くようになるかもしれません。

あるいは、誰かを援助したり、アドバイスしたりして、他の人々から自分への感謝と称賛を求めるかもしれません。

でも、どちらも多くの場合、自分の期待は裏切られるでしょう。人は自信を失うと、自信に満ちた人のところへは行かず、同じように、自己評価が低い人のところに行こうとするからです。そうすれば劣等感から逃げることができるからです。

自分に自信を失っている人は、他の人を思うままに従わせたり、操ったり、振り回したり、他人を自分より低めることで自分を高めようとするからです。そのような人は、自分のところに「認めてもらうこと」を求めて来る人を利用するのです。エホバの証人のような宗教に必死になって従う人にも、このような傾向がある場合が多いのでしょう。

自分に自信を失っている人に必要なのは、しかし実際には、「認めてもらうこと」、「承認」」されること、です。でもそれはうわべだけのお世辞ではなく、人の長所を見抜き、それを惜しみなく賛辞するものでなければなりません。そうでないと、心からのうれしさというものを、人に与えられないからです。

人に惜しみなく、真実の賛辞を贈れる人、それは傷ついたり、失意に打ちのめされていたり、劣等感に苛まれていたりする人ではなく、自分の価値を正直に、しかもありのままに知っている人です。つまり高い自己評価を持ち、誰かからお追従を言ってもらわなくても、堂々と自分の胸を張れる人、自分にはかけがえのない価値があると認めている人です。つまりは自信に満ちている人、生きる目標を自分で定められる人です。

人まねをしていても、こうはなれません。最初のうちは、誰かの真似でいわば「助走」をつけるのはいいアイディアでしょうけれども、最終的には自分が持っている真の才能を見つけだして、自分をいちばん活かせる舞台を選んで生きて行くのが人生の「充実」、または「成功」だとわたしは思うのです。

「威」は虎にだけあるものではありません。自分に賦与されている才能の芽それ自体が「威光」なのです。重要なのはそれを見出し、それを伸ばし、それを生かすことではないでしょうか。人が生きる意味、というのは自分を精いっぱい、フルに表現することだと、わたしはそう確信しています。