ふんでノート ~ちいきづくり・まちづくりと日本語教育

ちいきづくり・まちづくりと日本語教育をつなぐことを,「場づくり・人づくり」から進めていきたいと思ってつらつら書くノート

抜き書き 〜戦後日本語教育額とナショナリズム〜

2018年05月09日 13時49分23秒 | 
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…植民地や占領地などで日本語教育に従事した者、それらの場所で使われる教科書を日本国内で作成した者、日本語教育の政策立案などに関わった者など、戦前・戦中に日本語教育に何らかの関係をもった者は決して少なくない。しかし、戦前・戦中の日本語教育関係者で、敗戦直後のこの時期に日本語教育について言及した者はほとんどいなかった。1945年12月には、戦中まで日本語教員派遣事業や教科書編纂などに中心的な役割を果たした日本語教育振興会の理事長、岡部長景が戦犯容疑で巣鴨に収監されるなど、当時、戦中の日本語教育関係者は公職追放の危機にあった。

…ある教授の話では「長沼先生に全部GHQに付いていっていただいたので、追放になった人の中に日本語関係者はおりません、…」

…長沼直兄は、1923年から17年間、米国大使館の日本語教官を務めており、そのときに築かれた人脈が日本語教育関係者の公職追放を防いだという。しかし長沼守人が語った同じ座談会の中で、戦中、フィリピンで日本語教育に従事していた木村宗男は、フィリピンの教育課長が密告・告訴によって公職追放されたと述べており、また長沼守人も占領期当時の状況を「今でも当時のこととなると、おびえて話さない人もいますよ」とも話している。長沼直兄の力によって追放を逃れる場合が多々あったにせよ、日本語教育に関わっていたことで戦犯となる可能性が十分にあったのが当時の状況だったと考えられる。したがって、戦中に書いた自らの著書や日本語教育との関わりについては触れないほうがよく、まして積極的にそれを振り返るような論考が公刊されなかったのも不思議ではない。

…戦中の動きとして保科が論じているのは、陸軍省を初めとする軍部による漢字制限・仮名づかいの改訂に限られている。大量の動員にともない兵士の学力が低下したが、兵器の使用法などに関する教育のため感じを制限し仮名づかいを改める必要があったので、それまで漢字を多用していた軍部自らが国語改良を推し進めたという動きである。

…戦後の日本語教育の本格的な復活は、1950年代に入ったころからと言われる場合が多い。国際学友会の日本語クラスが再開され、インドネシア政府派遣技術研修生の受け入れも始まったのが,その頃だからである。ただし、それ以前に全く日本語教育が行われていなかったわけではない。敗戦直後から占領期終了後の日本語教育を論じた木村によれば、占領期には、米軍総司令部参謀部の日本語地区語学科、米国第8軍のArmy Education Centerをはじめとする一般の将校軍属と家族のための日本語教室、日本国内の主要な米軍基地内に設けられたメリーランド大学極東部、キリスト教宣教師とミッションスクール教師を主な対象とした東京日本語学校、関西の宣教師のための日本語学校といった施設で日本語教育が行われていたという。
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戦後日本語教育学とナショナリズム、牲川波都季、くろしお出版
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