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★「つくる会」と「自由社・石原萠記」と「ソ連」と「中国」と「社会党右派」と「創価学会」 (最新版)

扶桑社の中学校歴史・公民教科書は「教科書改善の会」(屋山太郎代表世話人)の支援を受けて、扶桑社の子会社「育鵬社」から引き続き発行されます。一方、扶桑社から絶縁されて異端となった「新しい歴史教科書をつくる会」は別の発行元を探していましたが、このほど「自由社」(東京都文京区、石原萠記社長)という会社に決まりました。以下は自由社とはどんな会社かという調査報告です。
   
▼自由社社長の石原萠記さんは社会民主主義者
 
自由社の社長、石原萠記(いしはら・ほうき)さんは、大正13年11月5日、山梨県生まれの82歳です。昭和19年、早稲田大学在学中に応召。21年、中支・漢口から復員。東洋大学で考古学を学び、共産党を除名された渡辺恒雄(現読売新聞社主筆)らと学生運動をしていました。マルクス主義の学者でつくる「民主主義科学者協会」(民科)の歴史部会に出入りしていたこともあります。その後、公職追放が解除になった右派社会党の衆議院議員、三輪寿壮の下で政治運動を行い、山梨県から衆院選に出馬すべく準備をしていました。
 
そうした中、米フォード財団の資金で1950年(昭和25年)に設立された反共文化団体「文化自由会議」(The Congress for Cultural Freedom =CCF、本部パリ)から破格な好条件を提示され、昭和30年に日本駐在員になりました。翌年、その友好団体として、やはりフォード財団の支援で、高柳賢三、木村健康、竹山道雄、平林たい子、林健太郎、関嘉彦ら知識人のサロンである「日本文化フォーラム」を設立しました(デビッド・コンデという元KGB映画演劇課長は日本文化フォーラムを「CIAのフロント組織」と決め付けました。日本文化フォーラムはともかく、文化自由会議がCIAの支援を受けていたことは事実のようです)。
 
保守運動を進める一方で社会党関係者との親交は続き、東海大学の創立者で社会党衆議院議員も務め、親ソ派として知られた松前重義を「現代の巨星」と絶賛しています。
昭和41年、松前らと日本対外文化協会(対文協)を設立し、今は副会長を務めています。対文協についてはここに出ています(最後にある1996年は1966年の誤記です)。つまりソ連政府の提案で設立された日ソ(露)友好団体です。米国に亡命したKGB工作員、レフチェンコが1980年代前半に対日工作の実態を明らかにしましたが、彼がKGBのエージェントとして名指ししたリストの中には、当時の対文協事務局長(コード名・サンドーミル)も含まれていました(エージェントとされた人は全員が事実無根と否定しています)。
対文協や日ソ親善協会など対ソ関係5団体が「両国間の理解と友好を増進し現状を打開するため」昭和54年から63年まで開いた「日ソ円卓会議」では、政治部会の座長を務めるなど中心的にかかわりました(石原萠記さんは「KGBの手先」と批判されたそうです。CIAと言われたりKGBと言われたり大変ですね。共産主義国との論争は大切です)。
 
中華人民共和国とも関係があります。昭和63年に中国との親善などに取り組む「情報化社会を考える会」をつくり、代表になっています。中国共産党中央対外連絡部副部長、中日友好協会副会長など中国の対日工作の責任者を長く務めていた張香山の著書『日本回想-戦前、戦中、戦後想い出の記』を監訳し、平成15年に自由社から出版しています(だからといって「石原萠記氏はすでに中共の対日工作の窓口だった」と言うつもりは毛頭ありません。中国と意見交換したって構いません)。
 
日韓親善にも尽くし、本人が何度訪韓したか覚えていないほど、韓国を訪れています。「韓国・北朝鮮統一問題資料集」という本の編者でもあります。自由社は月刊「韓国文化」という駐日韓国大使館の広報誌の発行を引き受けていたことがあります(石原萠記さんが日本の朝鮮統治をどう見ているかは後述します)。
 
石原萠記さんの著書・編著には『江田三郎』『三宅正一の生涯』『裏方政治家に徹した松井政吉先生』など社会党右派の政治家に関する本が多くあります。特に江田三郎については「革新のスター」と持ち上げています。交際は息子の江田五月に引き継がれ、資金管理団体「全国江田五月会」に献金するほどの仲です。
平成13年の江田五月の活動日記にはこんな記述があります。
「今日は、14時55分発のCA926便で、北京へ。中国人民対外友好協会のお招きで、3日間の日程で行ってきます。当初はもっと長かったのですが、国会情勢が緊迫しており、ゆっくり出来ません。中心となる石原萌記さんが顧問、私が団長です。日本の政治情勢は混沌。中国は全国人民代表大会(全人代)が終わったばかり。そこでどういう人に会えるか、行ってみなければ分からないところがあります。しかし、教科書問題をはじめ、日中間に問題山積です」
 
平成2年には松前重義とともに、土井たか子社会党委員長、永末英一民社党委員長、江田五月社民連代表や山岸章連合会長らに対し、西欧型の社会民主主義政権の樹立を目指す「社会民主主義研究会」の設立を呼び掛けました(この構想は頓挫しました)。
 
以上見てきたように、石原萠記さんは、構造改革派など旧社会党右派(社会民主主義)と、林健太郎、猪木正道に代表される「リベラル保守」に足場を置いて共産主義と闘ってきた方です。
 
▼不敬ではありませんか、石原萠記さん
 
私たちは、冷戦期に共産主義の直接・間接の侵略から日本を守り、自由と民主主義を擁護してきた石原萠記さんや自由社の業績を賞賛し感謝します(今の「つくる会」会長はそのころ向こう側にいました)。しかし共産主義と戦うなら勝共連合にだってできます(勝共の皆さんごめんなさい)。保守を名乗るなら、皇室や神道、靖国神社、先の大戦の歴史認識などにどのような見解を持っているかが問われます。
  
「自由」最新号(平成19年10月号)の「巻頭言」を読みましたが、怒りがこみ上げてきました。
 
「今の日本は狂っている。戦後の日本は何故こんなに狂ってしまったのか。敗戦の1945年8月15日を境に、敗戦という日本人としての屈辱に何の反発もみせず、また歩みを反省することなく、敗戦を受け入れてしまった。(中略)要は天皇以下、当時の指導者たちには、国民に対する責任感が全くなかった。この無責任な人間としての心を失った姿が、戦後日本の狂いの初めであると思う。苦境に際して、己の責任を回避して、他に責任を転嫁、己の生き残りを優先する。迷惑をかけた人々に対し、何らの責任を取ろうとしない。この無責任体制が、今日の日本をもたらしたと言えないか。(中略)先の参議院選挙で、戦後最強の保守勢力・自民党が歴史的大敗北をした。その時とった、安倍総理の姿勢をみて、思わず敗戦時の昭和天皇のことを想い出した。安倍総理も彼を支える側近の人たちも、終戦時の天皇同様、責任を回避する言動に終始し、党・支持者に対し、責任を取る発言をしなかった。そして世論の過半数が辞めるべきだというなか、総理は内閣続投の意思表示をするだけだった。敗戦時に天皇や側近者たちが、敗戦の責任を国民に詫びることなく、天皇制度の維持画策に狂奔したのと全く同じである。日本の最高指導者たちが、国の危機に際して取る思考態度は、常に自己保身であるとは、全く情けない。敢えて訴える。礼の国・日本再生の道を考えたいものである」

  
終戦後、昭和天皇が戦争について全責任を負うと述べられ、マッカーサーを感激させた話は、良識ある日本国民なら皆知っている事実です(扶桑社の歴史教科書にも人物コラムに明記されています)。巻頭言は無署名で、石原萠記さんの執筆とは断定できませんが、当然、社長である石原萠記さんに全責任があります(編集委員会代表は加瀬英明さんです)。天皇や皇族に対して「己」とか「狂奔」とは普通言わないものです。昭和天皇が「責任感が全くなかった」「無責任な人間としての心を失った姿」「己の責任を回避して、他に責任を転嫁、己の生き残りを優先する。迷惑をかけた人々に対し、何らの責任を取ろうとしない」「責任を回避する言動に終始」「敗戦の責任を国民に詫びることなく、天皇制度の維持画策に狂奔した」という根拠を、石原萠記さんと加瀬英明さんは国民に対して示していただかなければなりません。それにしても、このような会社から「つくる会」の教科書が出版されるとは。
 
この号には、石原萠記さんの連載「天皇制度形成の100年 その歩みにみる歌謡の変遷(下)-明治維新から昭和天皇の死まで」も掲載されています。昭和天皇の「死」…。天皇や皇族に対してはそういう言葉遣いはしないものです。
本文の書き出しを見てまたびっくり。「敗戦で明治以来の絶対天皇制度は崩壊した」。絶対天皇制度って…。この人は講座派でしょうか? もし自由社の教科書ができるとしたら、大日本帝国憲法の項目に「絶対天皇制度が確立した」と記述されることでしょう。
 
さらに、皇太子同妃両殿下について「お二人には公私を区別する心がない。全生活を日本の象徴として保証されている以上、行動に対する制約があるのは当然であり、それを人格否定、人権侵害というのであれば、その地位を辞する以外ない。生活を保証され気儘に生きられる“職”など、この世にはない」「失礼ながら、徳仁親王が“妻”を愛する思いやりは微笑ましく、それに甘えている妃の態度は、平凡な市井の主婦としては許されようが、一国の祭祀宗家を継ぐ人として国民の尊敬をうるにはふさわしくない」などと批判しています。
ここ数年、皇位継承や宮中祭祀、ご公務などのあり方をめぐって、両殿下に諫言する保守派の論考が発表されていますが、石原萠記さんの場合、諫言を通り越して明らかに不敬です。
 
▼石原萠記さんの「昭和天皇戦争責任論」
 
石原萠記さんの天皇観や歴史認識をさらに確認するため、自由社から刊行されている『戦後日本知識人の発言軌跡』という9450円もする著書をパラパラめくってみました。
 
例えば、昭和天皇崩御に際する報道について「天皇の事績をたたえる内容一色でぬりつぶされた」「厳しい反発の声があがった」とした上で、「私自身、韓国の友人に、われわれは『天皇の名』によって絶対服従を強いられ、戦争に『召され』、戦野に散った多くの戦友を忘れることは出来ない、君はどうかと問われ返答に窮した。確かにこの他国民の感情無視の崩御報道は、常軌を失したものであり、思慮に欠けたもので、詰問されても仕方ないと思う」(p51~52)と書いています。
海外の反応に関して、「ご逝去に関する世界の主な新聞論調をみると、戦争とその責任の問題に言及し、厳しい指摘をしているものも少なくない」などとした上で、「歴史的事実や現実は、たとえつらいことであっても認めるべきは認め、この傷をいやしていく努力を今後も続けていかなければならない。とくに一方的な日本の侵略を受けたアジアの国々の見方は、いっそう厳しいものがある。肉親を殺されたり、言葉や名前を奪われたりした人々からすれば、その暗い思い出が忘れられないのは当然だろう」(p55)と、日本はアジアに一方的に侵略したという歴史認識を示しています。
 
「戦時下、『天皇の御名』によって戦場で斃れ、また犠牲を強いられた人々が内外にいる事実は否定出来ない。そしてその責任が曖昧のまま、一般日本人は敗戦国民として、指導部の戦争責任を問うあまり、加害者意識をもたず、被害者意識のみを強調し、国際社会に登場する。そのような今日の姿勢では、他国民に理解されないのではないか」(p20)
 
「天皇をはじめ、戦時指導者に対する責任が明確になされなければ、大宅壮一のいう総ザンゲ論になりかねない。また、諸外国に対する“日本”の責任は忘れてはならぬにしても、国内での公的責任者不在のままでは、戦争を知らぬ世代は納得しないだろう」(p76)
 
昭和天皇の戦争責任を曖昧にしているから日本人は被害者意識ばかりになっている。一億総懺悔ではなく責任者を明らかにしなければならないというわけです。さらに次のように述べています。 
 
「昭和日本の頂点にあった天皇の崩御によって、問われてきた天皇の戦争責任問題は未解決のまま消滅し、新しい平成時代に入ってしまった。しかし、諸外国からいえば、天皇の崩御は日本の『象徴』が代替わりしただけのことで、『戦争責任』の問題は、問いつづけるという姿勢に変わりはない以上、わが国は国としての責任問題解決の対応を迫られよう。この果てしない他国の追及に対して、わが国は、戦争の因をめぐって明治以降の立場を明確にしつつ、第二次大戦中に行った非道は非道として決着をつける要はあるといえる。それだけに、国際的に注目された『大喪の礼』に際し、竹下総理がその弔辞のなかで、この問題にふれ、明確な立場をとっていたならばと、惜しまれてならない」(p84)
「日本は前大戦に至る国際政治を公正に明確にしたうえで、第二次大戦で犯した非道に対する戦争責任を潔く認めて、問われている問題に決着をつけ、平和宣言を一日も早くする必要があるように思う。そのうえにたって、初めて他国の戦争責任を問いうるし、『象徴天皇制』度も存在するといえよう」(p87)
大喪の礼の弔辞で、首相が昭和天皇の戦争責任問題について解決する言葉を述べるべきだった。戦争責任を認めて「平和宣言」をしないと「象徴天皇」は存在できない、というのが石原萠記さんの戦争責任論です。 
 
▼竹島を「独島」と呼ぶ親韓派・石原萠記さん
 
石原萠記さんのアジアへの贖罪意識、特に朝鮮半島に対するものは並々ならぬものがあります。
 
「同胞がこの国に三十六年間にわたり醜い爪跡を残したことに、日本人の一人として少なからぬ心の重荷を感じていた」(p289)という石原萠記さんは、朝鮮統治と支那事変での中国人の被害とを比べて「私は植民地として戦時、平時を問わず支配下においた韓半島住民にたいする責任の方が、はるかに重く、わが国のとるべき態度も重く在るべきであると思う」(p327)との持論を展開します。
 
そして「半島の人々の神経をさかなでする『信念なき』不用意な政治家たちの発言が相次いでなされ問題視されているのは羞かしいことである」として、奥野誠亮、渡辺美智雄、島村宣(ママ)伸、村山富市、江藤隆美の発言を挙げています(p259)。藤尾正行元文相が「日韓併合は韓国側にも責任がある」という趣旨を述べたことも「日本の責任ある立場の人間がいうべき言葉ではなかった」(p203)と批判します。
 
日韓基本条約締結に関する文章(昭和40年執筆)では、韓国側の日本不信を述べたくだりで「管轄権、李ライン、独島問題も、こうした不信感を払拭しない限り、常に紛争の種になるだろう」「石ころや魚の問題を論議しその不明な点を明らかにする態度は、よいとしても、中心は、あくまで、人間、文化の問題を中心に討議されなければならないのだ」(p305)と書いています。見間違いかと思って何度も確認しましたが、わが国固有の領土である竹島を韓国名である「独島」そして「石ころ」と表記しているのです。もし自由社の教科書ができるとしたら、竹島のことはそう記述されるのでしょうか。
   
▼「自由」の創価学会連載
 
自由社の設立と月刊誌「自由」の創刊は昭和34年です。当初は「世界」に対抗する保守派月刊誌でしたが、昭和40年代後半から徐々に部数は減っていきました。石原萠記さんは、日中友好を推進してきた平岩外四と長いお付き合いで、東京電力のバックアップを受けていた時期もあるそうです(今でも「自由」には東京電力や他の電力会社の広告が載ります)。
 
しかし平成8年8月号から創価学会擁護の記事が毎号載るようになりました。坂口義弘というジャーナリストが連載しています。最近のタイトルは次の通りです。
平成19年10月号「晩節を穢した矢野」
       9月号「矢野ファミリーの豪華な旅」
       8月号「信平、裁判所に出廷」
       7月号「原野商法の被害」
       6月号「日顕、日如批判の声」
       5月号「強欲の暴走人生」
       4月号「晩節を汚した富への執着」
       3月号「矢野蓄財への原風景」
       2月号「矢野の原野商法を斬る」
       1月号「日顕院政交代から1年」
平成18年12月号「矢野の資産十億への道」
      11月号「矢野の錬金術を追う」
      10月号「矢野絢也まさかの疑惑」
       9月号「クマが出没する、『新幹線』!?」
       8月号「熊の出る山を売り逃げ」
       7月号「東京地裁が矢野と乙骨を断罪」
       6月号「矢野一族に怒りの声」
       5月号「矢野一族が“原野商法”」
       4月号「いいかげんにしろ矢野、乙骨」

國民新聞の山田恵久社主はこんなコメントをしています。
自由社は5年前には、創価学会副会長が書いた『人間失格こんな悪い奴はいない―裁かれた山崎正友の正体』というおどろおどろしいタイトルの本も出版しました。まとまった冊数を関係者が購入しているのでしょうか。経営難からの措置であることは同情しますが(あるいは、お金ではなく信念なのでしょうか)、離れていった執筆者や読者も多かったようです。
 
自由社の所在地は東京都文京区水道2-6-3の「TOP江戸川橋」という賃貸マンションの2階です(「つくる会」の藤岡信勝会長のご自宅と直線距離で150メートルほどのご近所です)。東京商工リサーチのデータによると、資本金は2400万円、従業員は2人。平成18年4月期の売り上げは4800万円となっています。
 
▼おわりに
 
「つくる会」の西尾幹二元会長は自分たちを「近代保守」、八木秀次さんたちを「神社右翼」と呼んでいるそうですが、今回の出版社選びを調べてみて、その区分けもあながち間違いではないと感じました。もっと正確に言うと、つくる会首脳・自由社は「天皇なき保守」、改善の会・育鵬社は「伝統保守」なのではないでしょうか。「つくる会の理念」とはこういうものだったろうか。調査を終えて、悲しい気持ちになりました。
 
※転載・盗用自由。石原さんについて検索するときは「石原萠記」と「石原萌記」の両方で検索してみてくださいね。
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